男は目を閉じて来(きた)るべき世界を想像した。
青い地球が宇宙に浮かんでいる。
ゆっくりと自転しているように見えるが、実は赤道上は時速1700キロのスピードらしい。その地球の軌道上を、まるで渡り鳥の群れのように周回しているのは人類の英知の結晶ともいえる人工衛星群である。
20××年、その中のいくつかがカールツァイス製のレンズ越しにとらえた映像は、アジア大陸を中心に広がる閃光だった。はじめ数発だったそれは連鎖反応的に各大陸に広がり、やがて地球全体がミラーボールのように煌めいた。どこかの国が最終兵器の発射ボタンを押したのを機に、全世界を巻き込んだ報復合戦が勃発したのだった。
わずか数時間で現生人類の文明は消滅した。それだけではなく大地は荒れ果て、海は濁り、粉塵が太陽光線を遮り、修復不可能な環境の中で過半数の生物が姿を消し、かろうじて難を逃れた種も環境の変化の中で絶滅のシナリオに身を委ねるしかなかった。
ごく少数生き残った現生人類にも未来はなかった。一部の天才たちに依存していた人々は個々の力では文明を再生できるはずもなく、徐々に理性を失った。原始時代のような生活をしているうちに知性までもなくなった。やがて人間の脳の退化は加速し、人類の栄光の火は完全に消えた。低能になってしまった人間たちは、もはや文明時代の遺物を見ても使用方法すらわからなくなっていた。
人類最高の友であった犬族たちも今回ばかりは愛想をつかした、というよりも、人類は過去の犬の恩恵を忘れてばかにしたように扱っていたため、ペットとしての認識しかなかったのがまずかった。人類はこの惨状の中で文明再建の唯一の救世主が犬だとは思っていなかったのが致命的だった。
犬に守られないかつての地球の覇者は頭脳も爪も牙も持たない無防備な裸のサルに落ちぶれて、もはや残存肉食獣たちの腹を満たすだけの肉の塊でしかなかった。食物連鎖の底辺となり果てたのである。
生物の世界は不思議な法則がある。生態系の一部が消失するとその “空き” に別の生き物が適応して収まるというものだ。恐竜が絶滅に追い込まれた後に、一部の鳥類が空を捨て大地をのし歩くようになり、ティラノサウルスそっくりの巨大な “恐鳥” になったように、ニッチの空白は必ず埋まることになっている。
“今の地球の終わり” は “次の地球の始まり” でもある。かつてのサル型人間たちが君臨した最上位の空白を目指す種が、新しい人間になるための生物学的な戦いを繰り広げ始めた。
新しい人類候補の必須条件は、(1)核戦争以降の地球環境に耐える生命力があること、(2)あらゆる場所でも融通が利く肉体構造の持ち主であること、(3)発達しやすい脳を有していること、(4)社会性生物であること、(5)繁殖が旺盛であること、(6)雑食であること、(7)ある程度の寿命があること、(8)万能サポーターである犬と仲良くできる素質を持っていること、以上である。
同じ過ちを繰り返さないためにサルは除外するとして、こうなると候補は鳥類ではカラス、哺乳類ではネズミ、節足動物ではゴキブリ、この三者に絞られてしまう。しかし、ゴキブリ人間に犬たちが奉仕する姿は想像したくない感じもする。
いっそのこと犬族が新しい人類になれば、これはさぞかし平和な世界が構築されるだろう。犬は一度決まった社会的順位に不満を抱かず、虎視眈々と上位を狙う習性のサルとは違うからである。しかし、キャッチャーがピッチャーをやってしまったら、球を受ける係がいなくて野球が成立しなくなるのと一緒で、犬は主役を助ける存在でなくてはならず、これもやはり難しいようだ。
男はそこまで考えて思わず「うーん」とうなった。
愛犬が首をかしげて心配そうに顔を覗き込む。そして、遊び倒してボロボロに使い込んだオレンジ色のふわふわボールを持ってくると、男の手のひらに無理やり持たせた。少しヨダレで湿っている感触が可愛い。
「おとうさん、なんだか知らないけどポーンしてあそびましょう」
愛犬に求められるままにボールを投げているうちに男は楽しくなり、変な夢のことなんかどうでもいいと思った。人類最古の家畜、人間の最高の友達、そんな君と出会った奇跡。幸せはいつも刹那的だ。この一瞬を君と一緒に生きている。それだけで俺は満足なんだよ。
数日後、男は再び “太陽の顔の誰か” の夢を見た。前と同様に頭の中に強く響く声で彼は言った。
「予定を変更したので、お前は100年生きなくてもよい」
その変更が如何なるものなのか、男には問う気持ちはなかった。そんな心配をして眉間に皺を寄せているくらいなら、愛犬と一緒に屋上に行ってポーンボールをして遊んだり、春のフウランたちのふっくらした姿を眺めてくすっと笑ったりしていたほうが46億倍くらい有意義だと思ったからである。