しかし、久枝さんから、ミエさんの怒濤のごとき怒りようを知らせてもらって、人間は年を取ったら、まず嫉妬に狂うことなんてないはずだと漠然と思っていたのは間違いだったと気づいた。
木村氏は狼狽(うろた)えて、あわてて彼女をレストランに誘ってご馳走をして機嫌を取った。そこから二人の関係は少しずつ修復されていった。そして先週のことだ。ミエさんが久枝さんの家を訪ねて来た。とてもご機嫌な顔だったそうだ。満面に笑みを浮かべて、久枝さんの前にある椅子に座った。
これまで、久枝さんにも私にも内緒にしていた二人の痴話喧嘩の顚末を打ち明けたのがこの時だ。もちろん久枝さんは呆気にとられた。ごく普通の老女に見えるミエさんが、そんな野性的ともいえる行動を起こすとは想像していなかったからだ。
お茶碗を相手に向かって軽く投げるくらいはあるだろうが、床に叩きつけたり、ポケットチーフを切り刻んだりなんて破壊行動に出たのは驚きでしかなかった。
一連の騒動を喋った後で、ミエさんはハンドバッグから白い紙を出した。おもむろにそれをダイニングテーブルの上に広げた。
なんと、それは区役所に提出する婚姻届だったのである。ミエさんと木村氏の名前で出せるように書き込んである。
「だって、木村さんには奥様がいらっしゃるんでしょ?」
のけぞらんばかりの久枝さんを見て、ミエさんが明るい笑い声を立てた。
「私だって、もちろん、彼の奥さんがいることは知っているわよ。でもね、奥さんが死んだら、必ず私と結婚するって約束しなかったら、今までのことをすべて奥さんに話すって脅かしたの。そうしたら、家内はもうそんなこともわからないよって首を振るから、じゃあ婚姻届だけは先に用意しておいていいでしょ。離婚をしろって迫っているわけじゃないんだからって強気で押したら、言う通りに署名したのよ」
ミエさんは、ひくひくと鼻をうごめかさんばかりの得意顔だった。
そこまで聞いて、私は大きなため息をついた。久枝さんも期せずして同時に大きく息を吐いた。その後も続けて二回三回とその日の私たちはため息というか、深呼吸というか、変な呼吸をしてから電話を切った。
それからしばらく一人で考え込んだ。ミエさんも智佐子さんも、結局は同じかもしれない。どうしても愛人の立場ではなくて正妻になりたいのだ。その原動力は嫉妬だろうか、虚栄心だろうか、世間体だろうか。なんだか理解不能だが、正妻の座はそこまで魅力的なものなのだろうか。
60代の智佐子さんと80代のミエさんは、年齢に関係なく結婚へと突き進んだ。ということは昔ながらの不倫なんてもう死語かもしれない。パパ活の娘たちや強引に結婚にこぎつける熟年女性のエピソードで、私の頭はすっかり混乱したのだった。
工藤美代子(くどう・みよこ)ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。