ある日のことである。
「ハクビシンの乳飲み子を拾いました。どこに問い合わせても放置せよと言われます。それでは死ぬのは目に見えています。どうしたら?」という相談を受けた。
私は「家に連れ帰り、ミルクで育ててあげましょう。一人前になったら拾った場所に帰しましょう」と回答した。
相談者は「そうですよね、それが普通ですよね、やっとまともな人を見つけた」と感激していたが、そもそもハクビシンは大人になると人間を避けるようになるし、人が育てても元来の野性を失うことはないから大丈夫である。
病院の業務が終わり夜の帳が降りる時、やっと “私の時間” が始まる。ただし眠る時間を削って自由時間に当てているので、あまり好き勝手をしてしまうと、寝ないままで仕事にGO!のダルい朝が待ち受けることとなる。そんな私を見た人たちから不死身ならぬ “寝不身(ねずみ)” の称号を受けたことがある。
そういえば幼少時にいつも同じ悪夢にうなされた。なんの夢なの?と母に問われてもうまく話せなかった。しかし今なら説明できる、あれはエーテル麻酔で解剖されるネズミの苦しみの夢だ。
濡れたアスファルトを全速力で走る夢もよく見た。その視点は二種類あって一つはネズミ、もう一つは犬のそれだった。後者に関しては途中で景色が回って終わる。もしも輪廻転生があるとしたら私の前世は解剖されるドブネズミ、走り回って車にひかれる野良犬だったのだろう。
閑話休題。その夜、私は病院の裏口の扉をぽーんと開け「うーん、いい月夜だね」と歩き出した瞬間に、サッと足元をすり抜けて病院内に侵入するクマネズミを見た。これはベテランの人間のコソ泥が使う手でもある。
「お若けえの、おまちなせえ!」と言うと、ネズミはエレベーターの前で一瞬振り返り、「待てとお止めなされしは、拙者が事でござるかな」と言いつつも「御免なすって」と非常階段をぴょんぴょん上った。
私はネズミを屋上の扉まで追い詰めたが、そこはやはり立体活動を得意とするクマネズミ、かがんだ私の頭上を助走なしの大ジャンプで飛び越えようとした。しかし “元ドブネズミ” の私の反射神経は健在で、空中で彼の胴体をむんずと捕まえることに成功したのだった。
「お前、よく見ると痩せてるね……しばらくうちで暮らしてもいいよ」
ネズミは長いひげを動かしながら言った。
「重ね重ね、面目ねえ……」
かくしてネズミとの共同生活が始まった。サーカス団員のように身軽なので宙太郎と名付け、高級なドッグフードをメインに季節の果物を添えたメニューを毎日与えて太らせた。彼からはネズミの超音波の会話方法を教わった。この特技により私はいつでもどこでも、ネズミたちを呼ぶことができるようになった。宙太郎は立派な大ネズミになった。たいして感動的なドラマもないまま袖を分かつ日がやってきた。
「宙太郎、お前はお前の世界で生きろ。達者でな」
「アニキこそ身体こわすなよ!」
「いい嫁さんもらって子供が生まれたら見せに来いよ!」
宙太郎は振り向きもせず走り出した。行け宙太郎! ネズミがネズミらしく、誇り高く生きるために!
都心部の野生動物観察から少し遠ざかるが、私の深夜ドライブコースの一つに、東京の秘境ともいえる奥多摩から秩父の山道を通り山梨県まで行って中央高速で戻るというややハードなものがある。真夜中でもあるし、さぞかし様々な野生動物に遭遇するのでしょうね、と聞かれるが、意外と目にすることはない。それでも耳を澄まし、瞳孔を広げ、全身で感じる努力をすると、様々なものが見えてくる。
大人が入るくらい大きな穴を掘っている人や、窓にテープで目張りをして沈黙しているクルマ、置き去りにされて裸足で歩く女性などの人間たちの強い残留思念。そして、曲がり角に佇む花嫁衣裳の女、青く光りながら漂う火の玉、狐のしっぽが生えた幼児などの “物の怪” たち。
それらに混じってイタチ、テン、ムササビ、ホンドギツネ、ニホンジカなどが確認できた。ツキノワグマに至っては夢中でクワガタムシを観察する私の5メートル先で、街灯の明かりに飛来しては落下する昆虫を食べていた。獣はお互いに忙しい時はむやみに争ったりはしないものだ。ちなみにここではタヌキやハクビシンなどの都心部に生息している種は全く見ない。
また御岳山には “おいぬ様(ニホンオオカミ)” を祭った神社があり、オオカミが生き残っているとすれば、この辺りが一番可能性が高いと思っている。深い山奥の彼方から力強い遠吠えが聞こえてきたらどんなに素敵だろう。いや、もし彼らが生き延びていたとしても、それは封印されているかもしれない。人間に見つかってしまえば今度こそ最後なのだ。
私はこれからも度々漆黒の闇の中で活動する動物になる。何か新しい発見があった時には真っ先に皆さんに報告したいと思っている。