潤う成熟世代 快楽(けらく)─最終章─ 作家・工藤美代子さんの人気シリーズ「快楽」の最終章。年齢を理由に恋愛を諦める時代は終わりつつある今、自由を求めて歩み始めた女性たちを独自の視点を通して取材。その新たな生き方を連載を通じて探ります。
前回の記事はこちら>> 第15回 息を吐くように噓をつく女(後編)
文/工藤美代子
翌週の月曜日に、自分の愛車であるフェラーリに、つめるだけの衣類と靴を乗せて去って行った。もちろん、車体がぺったんこのスポーツカーにつめられる品物などたかが知れている。すべて、彼が愛用していたものばかりだった。
そして、その夜、井上氏は妻に電話をした。「僕はもう家には帰りませんから」とだけ告げた。
井上氏が無事にアヤさんとの離婚を成立させたのは、家出をして1年後だった。父親が亡くなり、井上氏も去った後のアヤさんは、すぐに毎月の光熱費すら困窮する有様となった。離婚要請に応じて、住んでいる家を売却する以外に、彼女の選択肢はなかったのだろう。もはや彼女の噓を信じてくれる、あるいは信じているふりをしてくれる家族は、誰もいなかった。
すでに井上氏は再婚している。したがって、これ以上詳しく彼の近況に触れるのは控えたい。ただ、私は井上氏と会った直後に、はたと思い出した男の人がいた。それが三橋氏だった。気味が悪いほど三橋氏は井上氏に似た経験をしている。
実は三橋氏は4年前に脳溢血で亡くなった。この時に彼の友人たちは、三橋氏が妻のノリさんに終生悩まされていたのを知っているので「あの女に殺されたようなもんだよ」と憤った。そうかもしれないと私も思った。まだ逃げ切れた井上氏の方が幸せだった。なぜならノリさんもまた異常なほどの虚言癖があるからだ。小学生の頃から、噓をつくのが平気な子供で「今日はね、100カラットのダイヤを持ったお客さんが家に来るのよ」と友人たちに自慢するのなど日常茶飯事だった。
三橋氏もノリさんの実家も、いわば名家同士の釣り合いを考えての結婚である。しかし、迎えた新婦は初めから婚家では浮いていた。
これはどこの家でも同じだと思うが、それぞれの家には、今まで培われて来た家風というものがある。その家風があまりにもかけ離れていると、難しい局面が出て来る。それでも、なんとかその違いを擦り合わせて生きてゆくのが夫婦かもしれない。