Vol.19 リカルドと万里子――個性の違う最強のバディ
“男の料理”と聞いて豪快、もしくは蕎麦打ちのような侘び寂び系を思い浮かべる方はきっと多いだろう。けれど、万里子の夫であるリカルド(渡邊 勇/現・ワイエムファッション研究所顧問)がよく腕を振るうのは、パスタのような皆が喜ぶスマートなメニュー。3年ほど前から料理に目覚め、万里子や娘の青(セイ)たちに日々ふるまってくれるという。家族のみならず、友人や歌舞伎役者さんたちを招く集まりのときも彼の料理は大好評。
自宅に歌舞伎役者の市川九團次さんを招いてパスタに奮闘中の1コマ。メイン料理のほか、リカルド(右)お手製のサイドメニューも次々にテーブルを彩った。「いつの間にこんなメニューをマスターしたのか?と思いながらおいしくいただたいて、部屋へ戻ると“研究”の痕跡があるんです。料理本が何冊も開かれたまま、そのメニューのあちこちに鉛筆で線が引かれていたりして。あぁ、いくつか見比べて事前研究していたんだなぁとわかります」と、万里子はおかしそうに微笑む。
「私が食べて『おいしい!』、娘もひと口食べて『おいしい!』と、少なくとも毎回2度は誉められる。誉められてさらに興味を深め、探究することで自信に繋げていくのでしょう」
鉄は熱いうちに打つ、探究心の塊
「ただならぬ集中力で、あっという間に習得してしまう人。飽きるのもちょっと早くはあるのですが(笑)。最近のことで言えば私が通うインナーマッスルのレッスンも、彼は後から始めたにもかかわらず『鍛え方はもうマスターした』と断言して、おもしろくないと通うのをやめてしまいました」
松竹の歌舞伎役者たちを撮影する写真家だった父、教育熱心な母のもと、文化的な素養を早くから磨かれる環境にあったリカルド。特に音楽は――ピアノは今でもよく弾くけれど――クラシック、ジャズ、オペラに至るまで、幼い頃から耳への薫陶を受けて広く通じていた。またカメラマンとしても、学生時代から父のもとで仕事をマスターし、大学の授業では物足りなくてキャンパスではなく、足は撮影現場へ向かってしまう実践派。オリンピックや赤十字のキャンペーン
写真家として若くしてさまざまなテーマに向き合い、学びや刺激を得ていた。
20代でニューギニアへ取材に赴いた頃のリカルド。車の故障などハプニングも少なくなかったが、いつもユーモアたっぷり。「撮影だけでなく企画プランも学び、若者文化を発信する存在として、早くから周りに認められていたリカルド。そんなタイミングでの出会いでした」
とにかく情報キャッチが早い。パッと熱する。そして「こんなことやったら面白いんじゃない?」と提案し、仕事でも遊びでも“皆を巻き込んでいく不思議な力”を持っている人なのだ。
突拍子なく、およそファッションに関係ないようにも思えるイベント・アイディアについて彼が語り始めると、「なぜ?」と皆で度肝を抜かれもするのだが、話はいつも的確で的を射ている。気がつけば「なんだか面白そう、やってみようか!」と周りをすっかりその気にさせている。後年振り返ってみたら、“企業姿勢”として、かなり時代に先駆けていたことも多い。メセナ活動は、ワイエムファッション研究所の“理念の
3本柱”のひとつとして、早くから根ざしている。
純粋で無自覚な、天性の“人たらし”
「結婚した当初は義父母と同居していたのですが、帰宅するなり玄関先で『お父さん、お母さん、ただいま戻りました!』と声を発し、部屋の前ではきちんと膝をついて安否を問う。これを大真面目なルーティンとしていることに驚きました。私の実家も封建的でしたが、作法が違うなぁと感じ入りました」と万里子。彼は毎日丁寧に1時間かけて父への肩揉みも欠かさず、丁寧な対話の時間としていたという。
いつも優しい声で静かに話し、人との接し方がスマート。当時の日本の男性にはないマナーを身につけたスタイルだった。佇まいで周囲を動かしてしまう、いわゆる “人たらし”の素養もそんなところにあるのだろう。
「リカルドにはファンが多く、家にも多彩な人材が集ってサロンのようでした。後になって、あぁ、彼は “影のフィクサー” なんだな、と私も理解したのです。リカルド本人は何もしないのに、『リカルド元気?』『リカルド今日も素敵!』と声が掛かり、評価されている。でも、本人はいたって自然体な生き方なのです」
掌で踊る悟空は果たしてどちらなのか?
「女性もどんどん社会に出るべきだ、と背中を押してくれたのはリカルドです。タイ工場やイギリスに会社を広げるときは、1年の大半は海外にいるような状況でしたが、彼の理解と好奇心があったことで、私も邁進できたのだと思います」
色を揃えた“大人のペアルック”。ヤッコマリカルドの服にはこんな楽しみ方がある、というよきお手本のふたり。仕事で意見が食い違うこともあるが、同じ目的に向かっているので争いにはならない。
「昔は、リカルドの大きな掌の上で、いつも私は跳び回らされていると思っていました。でも今感じるのは、まったく違う別々の個性――この2つが私たちには必要だったということ」
そう思えること自体、とても素敵である。フィフティフィフティで信頼し合えているということに他ならない。リカルドの掌も、万里子の掌も並大抵の広さではなさそうだから。