東京工業大学大岡山キャンパスの煉瓦の小道で、とびきりの笑顔を見せるお二人。『オズの魔法使い』を彷彿させる楽しい写真に。体は自然の一部。コントロールはできない
松岡 同じ人間の体であっても、死が目前に迫っている人の場合は、別の捉え方があるように思います。それについては、どのように思われますか。
伊藤 そうですね……今は自分の死が視野に入っていないので、そのときになったら違うことをいうかもしれませんが、体も自然の一部だと思うんです。自然である以上はコントロールできなくて、自分がもっと生きたいと願っても死は訪れる。そのとき人は、自分が体の主人だと思っていたけれど、本当は体という自然の上に自分の意識がのっているだけだった、と知るのではないかという気がしています。コントロールできないという意味では、妊娠・出産も似ているんですよね。おなかの子どもに翻弄されて、食べ物の好みが変わったり。私の場合はすごくジャズが聴きたくなりました。
松岡 亜紗さんではなく、おなかのお子さんがジャズを求めていた?
伊藤 はい。私はもともとスイングしたいと思ったことはなかったので。乗っ取られました(笑)。
松岡 乗っ取られる! そういう感覚なんですか。
伊藤 この生きものにとって、私はただの環境でしかないことを痛感しました。出産の瞬間も、「出るといったら出る!」という感じで勝手に出てくる。もう、子どものなすがままです。
「体を制御したいという煩悩を手放したときに見える景色を面白がりたい」──伊藤先生
松岡 コントロール不能な体験をされて、何を思われましたか。
伊藤 コントロールできないことの先に新しい出会いがあるんだなと思いましたね。体が教えてくれることを受け取ってみよう、と。私は吃音があって、子どもの頃からしゃべるのが苦手だったのですが、吃音というのはしゃべろうとすると言葉が出ないとか、違うことをいってしまうとか、自分の体がいきなり制御不能になるんですね。だから、体を研究するのは、自分のものでありながら思うようにならないものを、どうやって一生かけて引き受けていくかを考えることだとも思っているんです。もちろん、コントロールしたいという煩悩はあるんですけど、一方で、煩悩を手放したときに見える景色というものを面白がりたい気持ちも強くて。その面白がる視点を獲得したくて、たぶん研究しているのだと思います。
松岡 面白がる、いいですね。以前、吃音の人の取材をしたとき、全然吃音が出ていなかったので、そう伝えたら、「もともとの自分の声を失う代わりに今の声を手に入れたので、スムーズにしゃべれるんです」とおっしゃって。
伊藤 興味深いですね。
松岡 オーストラリアで学んだと話されていました。そんなふうに体が変わることもあるんですね。
伊藤 人の体は日々変化していますね。特に人生後半になると、失う系の変化が増えていく。それをただのマイナスと捉えずに、面白く捉えられたらと思います。