空海の足跡とゆかりの地
774(宝亀5)年 1歳
讃岐国の屛風浦で父・佐伯直田公(あたいたきみ)、母阿刀(あと)氏の間に誕生。幼名は真魚。
善通寺の誕生院(西院)御影堂と奥殿の脇にある空海の「産湯の井戸」。撮影/本誌・西山 航
781(天応元)年頃 7歳頃幼少期の真魚は貴物(とうともの)と呼ばれた神童。7歳頃、仏法を世に広め、人々を導くことを哲願して捨身ケ嶽から身を投げたところ、天女が助けたという伝説も。
左・「捨身誓願之聖地」に祀られている稚児大師像。眼前には町並みと瀬戸内海が広がる。右・7 歳の頃の伝説「捨身誓願」の様子が描かれている。天女に抱き止められた真魚は釈迦如来を見たという。「弘法大師行状図絵」金剛峯寺所蔵
788(延暦7)年 15歳長岡京に上り、母方の叔父、儒学者・阿刀大足(あとのおおたり)に学問を学ぶ。
791(延暦10)年 18歳大学の明経科に入学。
794(延暦13)年 21歳この頃、官吏の道を捨て、大学を去る。ある沙門から虚空蔵求聞持法を授かる。吉野・大峯山や四国の大瀧嶽、室戸岬、石鎚山などで修行を続ける。22歳で名を空海と改める。平安京遷都。
左・「虚空蔵求聞持法」の修行中に明星が飛んできて口の中に入るという神秘体験をした室戸岬の「御厨人窟(みくろど)」(高知)。 写真左/そら〈ピクスタ〉右・大学退学後の山岳修行の地の一つである「石鎚(いしづち)山」(愛媛)。写真右/ Ryolemon〈ピクスタ〉
797(延暦16)年 24歳『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著し、儒教、道教、仏教の優劣を論じ、仏教の優位性を示す。
804(延暦23)年 31歳出家得度し、東大寺戒壇院にて具足戒を受ける。
本場で教えを請うため留学僧として遣唐使船に乗る。
福州赤岸鎮に漂着。
805(延暦24)年 32歳青龍寺の恵果和尚から、胎蔵、金剛界、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を授けられる。真言密教の第八祖となる。12月恵果和尚入寂。
806(大同元)年 33歳8月帰国の途につく。帰国後、大宰府に留まり『御請来目録』を朝廷に提出。
807(大同2)年 34歳唐にある青龍寺を模して善通寺を創建。
809(大同4)年 36歳平安京に入る許可が下り、高雄山寺に居を移す。
「高雄山寺(神護寺)」(京都)に入山後、14年間住持。空海が最澄に灌頂を授けた際の直筆の名簿「灌頂暦名(かんじょうれきめい)」も所蔵。
812(弘仁3)年 39歳高雄山寺にて最澄ら4名に金剛界結縁灌頂を授ける。同所にて最澄ら194名に胎蔵の結縁灌頂を授ける。
816(弘仁7)年 43歳上表して高野山の下賜を願い、開創の勅許を賜う。
819(弘仁10)年 46歳高野山に滞在し、壇上の七里四方に結界を結んで、伽藍造営に着手。
821(弘仁12)年 48歳満濃池の修築別当に任ぜられる。約3か月で修築完了。
822(弘仁13)年 49歳東大寺に灌頂道場(真言院)を建立すべき勅が下る。
824(天長元)年 51歳造東寺別当に任ぜられる。
828(天長5)年 55歳庶民のために綜芸種智院を創立する。
835(承和2)年 62歳金剛峯寺が定額寺となる。
高野山奥之院にて入定する。
921(延喜21)年醍醐天皇から弘法大師の諡号(しごう)を賜る。
三大霊跡の一つ「教王護国寺(東寺)」(京都)。真言密教の根本道場とされた。写真/イグのマスタ〈ピクスタ〉
※次回に続く