スーパー獣医の動物エッセイ「アニマルQ」 ひたすら動物のためだけに日々を生きている野村先生。常に新しい医療を探求し、異常な集中力を要する過酷な手術に挑み、動物本位の医療を行うための投資は惜しまない。飼い主がわかるまで説明し、手術の様子を飼い主はガラス越しに見ることができるから誤魔化しはできない──。これほど真摯に仕事に向き合っていても誹謗中傷されることもある、そんな愛なき世界への違和感。“あの日”を境に、“世界”は変わったのだ。
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最終回 還る
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
大気中の水蒸気が星の光を隠す蒸し暑い夏の夜。
私は愛車ランボルギーニの運転席に座って、19歳から今に至る40数年間の出来事を思い返していた。人は最期の瞬間に記憶が走馬灯のように浮かぶと言われているが、それは目前に迫る命の危機を逃れるための方法を過去の経験からサーチするためらしい。
でも、今の私はそういうことではなく、“この世界”での人生で楽しいことがどのくらいあったのかを確認したかっただけだった。
「うーん、辛い戦いの記憶ばかりだな……」
私は一人で苦笑いした。
そうこうするうちに、日に焼かれた濃緑の街路樹の揺れが止まり、聞こえていた喧騒がいつの間にか消えた。
やがてコンクリートの熱気に満ちた無人の夜の街が少しずつ歪み、景色が細かく揺れ始める。その中で点滅する信号機と照らされたアスファルトだけがリズムを刻むが、数秒後には街灯に惑わされた蟬の高周波が鳴り響いて無音を破り、周囲は再び見慣れた景色に復帰した。
今夜はこの場所の空間、または存在とでもいえばいいだろうか、そういった通常の確固たるものが安定を失っているに違いなかった。
私は “その時” が近づいたことを確信した。
こんな夜は “あれ” が現れる。
私はこの40年間、時間さえあればこの場所に来て検証を重ねていて、訪れた回数は実に2000回を超えている。その結果、数年に一度だけ、真夏の夜のある日時にその不思議な現象に遭遇できることを突き止めていた。
ピッピッポーン! 時報が鳴った。時計の針は午前2時を指している。
私はエンジンを吹かして調子をみた後、いつでも発進できるようにギアを1速に入れたまま、ブレーキを踏んで前方の景色を注視した。
このクルマは700馬力という規格外のパワーを持ち、瞬き2回半の間に停車状態から時速100キロに到達してしまう猛烈な加速性能を持つ。最高速度は時速350キロを超えるので、当然のことながら万が一の場合に威力を発揮する強力なブレーキも備えている。そのポテンシャルは今までに所有した19台のスーパーカーの中でも群を抜いている。瞬発力があること、これが私が日常的に使用するクルマの条件だ。というのも “あれ” が現れ、消えるまでの時間はたったの5秒程度であり、しかもその “イベント” の開始は100メートル離れた場所でないと確認できないのだ。
“あれ” とは何か。
それは……本来そこに在るはずのない “幻の道” である……。私は今まさにそこに “突入” しようとしているのだった。