暮らしの空間の中で、自分が好きなものや花をかざる場所を決めてみる
語り/小林 厚暮らしの中で花を入れるのは楽しいものです。これまでにお話ししてきたように、茶席の花は極限まで削ぎ落としてゆくような感覚がありますが、日常の花はまた別の側面があります。
茶室の花が一瞬ともいえる短い時間である一方で、生活の花はずっと一緒に過ごす感覚があります。あまり研ぎ澄ませすぎても疲れてしまう。生活空間の中でここだけは不必要なものを置かないで花を入れる、という場所を決めておくとよい、と僕は思います。
古民家の生活空間にさりげなく溶け込む花たち。砂張釣舟花入に入る、山芍薬の実、沢蓋木(さわふたぎ)。苔むし、色あせてゆく植物の姿をそのままに。
そして常に自分が好きなものをかざったり、花を入れたりする。その時々の花を見て、これは台にのせたほうがいいなとか、ないほうがいいなとか常に考える。そうやっていろいろやっていくことで、自分の感性を磨くのです。感性を磨くという言葉はよく耳にするフレーズですが、僕はそれは自分で正解を見つけていくものじゃないかと思います。
竹のテーブルの上に置かれた白磁割台皿(黒田泰蔵作)に、枯れたヒメザクロの実と芒(すすき)をかざる。
自分がこれは好きだなと感じる。そのためには、やはり花なら花に触れる時間を作るとか、空間を作るとか、そういうことを日常の中に落とし込まないとなかなか感性は育たない。花だけではなく、たとえば食事にしてもどういうものを食べるか。コンビニのものでは感性は育たない。どういうものがおいしいか、どうしたらおいしくなるか。そうやって僕は感性を磨いていくものだと思うのです。
インドネシアの古い銅器には蔓梅擬(つるうめもどき)の大枝を。山からそのまま採ってきたような自然な形の枝が、古民家の空間の中で伸びやかに広がる。
茶花をうまく入れるためには、結局ふだんからどう花とつきあうか、さらに花以外のその人の生活がすべて影響する。暮らしの中でそういう時間を作っていって、どんどん自分のエネルギーを使っていくんですよ。すごいエネルギーを使うんですけれど、それが自身の力を貯めることにもなる。
お茶会もそうですよね。お客さんに呼ばれるほうも、亭主がどういう思いでそれを準備しているか、ふだんそういうことをしていると、わかるんです。あの人、これだけ準備したんだなと。やってみないとわからないですよ。やるとわかるんです。そういうことだと思います。
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