茶室でも、暮らしの場でも、空間に調和する花を入れていきたい
語り/小林 厚僕は二十代に伊豆の玉峰館という旅館の空間の中で花を入れることを覚え、三十歳を過ぎてからは大阪の戸田商店に移り、茶室という特殊な空間の花を入れ続けてきたのですが。いずれの場であっても、その空間で花だけが突出することを避けてきたとあらためて思います。
花には花自体が持つ美しさがあります。僕はその美しさを生かしたいと思う一方で、それらが目立ちすぎて、場全体を乱すことは本末転倒だと感じるのです。たとえば今回、鍾之助前会長の追善の席の花を入れる際、水仙に付いた花はすべて落とし、蕾だけを使いました(前ページ写真)。
水仙の花は開くと強い香りを放つということもありますが、追善の茶という場には蕾がふさわしいと感じたからです。いつもその時の茶席のテーマなどが頭にあり、それらといかに調和を取りながら花を入れていくかを考えることが大切だと感じます。
両手で抱えてもあまりある大壺に山の照り葉をたっぷりと
いろは紅葉(もみじ)
グラックドッグ線刻文大壺 内田鋼一作
玄関のスペースに現代作家の大きな壺(内田鋼一作)を置き、異なる3 種類の照り葉の枝を入れる。それぞれの葉の色味、枝のラインがあいまって、コンクリート打ち放しの無機質な空間が鮮やかに秋の色に染まる。
このことは花だけではなく花器にも当てはまります。花入というのは総合的に地味なものです。竹の一重切などでもそうですね、花を生かすために基本、地味なんです。もちろん入れる人の好みはそれぞれですが、僕は派手なものに花を入れたいと思わない。花入としての美しさとか、バランスとか、完成度の高さは不可欠ではありますが。 たとえば、内田さんの大壺にしても、まずそれ自体の力強さがあります。平安時代の常滑大壺も地味ですが、唯一無二の存在感があります。
平安時代の常滑大壺に、茶ノ木、山躑躅、松、杉の枝もの4 種を入れている。大地にも通じる壺の佇まいを受け、作為なく作り込まず、それぞれの枝を自然な姿で入れていく。暮らしの空間にありながら、山や森とつながっているような作品。
しかし、これもまた花材や空間との調和が取れているかが問われ、花だけが、あるいは器だけが突出して目立つということはないように心がけます。むしろすべてが控えめであることに美を感じるのです。この点においては、茶室の花であろうが、日常空間の花であろうが、同じことだと思います。
小ぶりの花器に枝ものを2種。メインをどちらにするかで見え方も変わる
暮らしの中で同じ花器を繰り返し使って楽しむとよいと先にも述べたが、ここでは比較的長持ちする葉っぱや実ものを2種使い、変化を付けていく実例を紹介する。
赤い実を付けた藪柑子(やぶこうじ)と、檜の小枝の、どちらを主体にするかで入れ方、見え方は変わる。入れる際に、それぞれの枝ぶりや実の付き方などを観察し、いずれを主にし、また従にするかを考えてみる。写真は、檜のまっすぐ伸びる枝と細かい葉を主にしたもの(右)、それに比して藪柑子のやわらかい曲線を描く枝ぶりや杏仁形の葉を主にしたもの(左)。
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