潤う成熟世代 快楽(けらく)─最終章─ 作家・工藤美代子さんの人気シリーズ「快楽」の最終章。年齢を理由に恋愛を諦める時代は終わりつつある今、自由を求めて歩み始めた女性たちを独自の視点を通して取材。その新たな生き方を連載を通じて探ります。
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第18回 年を取ったら丸くなるのか(前編)
文/工藤美代子
人間は年を取ると丸くなるものなのだろうか。若い頃のようにすぐ腹を立てない。周囲の人たちに優しくなった。すっかり変わったねと言われる知人もいる。だが、それは少数派だろう。やっぱり大多数は、胸の内に角張った材木のような思いを積み重ねながら生きているはずだ。これだけは譲れない、削れないというかたくなな角材みたいなもの。
わが身を考えても、70歳を過ぎたあたりから、他人と喧嘩をすることは確かになくなった。例外的に怒ったり怒鳴ったりする相手は夫だけである。これはお互い様で、向こうもしょっちゅう文句をぶつけてくる。犬も食わないとはよく言ったものだ。
しかし、その場合は結末がわかっている小説を読むのと同じで、予想外の展開にはならない。その上に夫婦の喧嘩は長編小説ではなくて短編小説だ。打ち上げ花火みたいに大音量で爆(は)ぜても、パッと終わる。延々花火が暴発し続けていたら、これは離婚するしかないわけだ。
近頃になってつくづくと思う。人間も自己主張出来るうちが元気な証拠ではないかと。きっぱりと私はこういう人間ですよと他人に示す姿勢は、年を取るほど重要になってくる。なぜなら、そうした方が、ストレスはたまらないし、人間関係も円滑に運ぶからだ。
さらには運も開けるのではないか。
卑近な例を挙げれば、ファッションなども自己主張の一つだ。不思議なことに、「私はお婆さんなのよ」と自分で思ったら、その途端に本当にお婆さんみたいになる。年齢相応の地味な色合い、そして体に楽な素材やデザインの服を選ぶ。そのためか、高齢の女性たちは自分が住んでいる環境の背景に溶け込むのが上手い。つまり目障りではないが、没個性にも見える。
私の友人で、長くパリに住んでいる60代のタカコさんは、長谷川町子の姪にあたる。旦那さんがフランス人で、もう成人した二人の子供がいる。彼女はお洒落の達人である。私はどうもパリ在住の日本女性で、いかに自分がセレブであるかをさかんにアピールしている有名人が好きになれない。
フランスのファッションや生活に、あまりにも露骨な憧れを示されると、共感を抱けなくなる。派手で豪華な社交界に身を置くフランス人はほんの一握りだろう。普通のフランス人は自分で工夫をして、ファッションだって、手頃な価格で気に入った服装、なにより自分に似合ったものを身につけている。食事も素材を生かした手料理が上手だ。
タカコさんの洗練されたお洒落を見る度に、他人に見せびらかすためではなくて、自分の個性を輝かせるためにこそファッションはあると感じる。もちろん、そこではセンスの良し悪しが一番の問題だ。
ファッションセンスが絶望的なほど欠如している私は、常に他人様に不快感を与えないようにとだけ心掛けてきた。特に還暦を超えたあたりから、その意識は強くなった。したがって、赤やピンクなど色彩の鮮やかな服なんて、もう何十年も着ていない。
だが、そこまで社会に迎合する必要が実際にあるのだろうか。むしろ、世間の縛りから自由になれることこそ、老人の特権ではないかと気がついた。
といって、誰かの結婚式とか葬儀とか、社会的な色合いが濃い会合で、とんでもない格好をするのは、もちろんルール違反である。今は、葬儀のための服装もずいぶんと自由になった。だからといって、参列者がブランド物の黒のパーティー・ドレスを身につけて得意がっていたら、これはなんとなくお気の毒に見える。この人は不祝儀用のちゃんとした喪服の用意もないのかと勘ぐってしまう。喪服とは、多くが葬儀にしか着用出来ないものである。その範囲内で、いかに真摯に故人を悼む気持ちが表せるかが重要だ。さらにそれがファッショナブルであればもちろん格好いいと思う。
喪服談義はさて置くとして、プライベートな時間には、もう少し服装にも冒険をしてみたいと私が思ったのは、2か月ほど前だ。久しぶりに菊地氏と再会してランチを一緒にした時である。菊地氏は以前にもこの連載に登場してくれている。あの頃の菊地氏は79歳だったが、現在は82歳になった。
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