彼は2年前に、ホームで知り合った淑子さんという女性と恋におちた。その淑子さんは彼より10歳年上である。ということは現在92歳である。
久しぶりに小さなフレンチのレストランでランチを共にしたのだが、菊地氏は少し困ったような、でも照れくさそうでもある笑顔を浮かべて言った。
「いやね、僕が10歳年上の女性と付き合っているって話すと、たいがいの友人は驚くんですよ。なんで、どうして?って。向こうが先に逝くことがわかっているのにってね」
それから菊地氏はこう続けた。
「でもね、淑子さんの方が僕よりずっと元気なんですよ。多分、僕の方が先にあの世に行っちゃうと思います」
真顔で彼がそう言うのには理由があった。5年前に菊地氏は膵臓がんを患っている。幸い医師の決断が早く、がんが発見された翌日にはもう開腹手術をした。私は自分の母が同じ病気で亡くなっているので知っているのだが、膵臓がんの手術は難しい。術後5年間の生存率がひどく低いのだ。母は術後1年くらいしかもたなかった。しかし、菊地氏の場合は手術が奏功して、今は残された膵臓だけで日常生活を送っている。糖尿病のための注射はしているが、それ以外はいたって元気そうだ。
淑子さんより10歳も若い菊地氏が先に亡くなるとは考えられなかった。
「いや、彼女は僕より外出しているんじゃないかな。もちろん、一人でどこでも行きますよ。例えばって、そうねえゴルフも行くし社交ダンスのレッスンも参加しているし、油彩画のクラスにも通うし、乗馬も好きだね。友人の家を訪ねたりもして、非常にアクティヴなんです」
だから、菊地氏は相手が92歳でも、自分が取り残されるのではないかという心配は微塵もないという。それでも、いつどちらかが体調を崩すかは不安である。
「彼女と話しているんですよ。二人共じゅうぶん元気で、したいことが出来るうちに、やっておこうねって」
(後編に続く。
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工藤美代子(くどう・みよこ)ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。