〔特集〕上野・東叡山寛永寺 創建400年の天井絵 手塚雄二・龍を描く 徳川家の菩提寺として知られる上野の東叡山寛永寺は2025年に創建400年を迎えます。同年その創建記念として、寛永寺の中枢である根本中堂に初めて天井絵が奉納されます。中陣の6×12メートルという天井に入る絵を任されたのは、日本画界を代表する画家、手塚雄二画伯。題材は龍、そして400年近くを経てきた天井板に直に描くという道を画伯は選択しました。その精神は、寛永寺を創建し、今の上野の基礎を築いた天海僧正(慈眼大師)の精神とも重なるようです。この特集では、天井絵のパワフルな制作の現場に密着。併せて寛永寺と上野の魅力に改めて目を向けます。令和を代表する絵の誕生に立ち会えた私たちに龍は福をもたらしてくれるかもしれません。
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浦井正明貫首にきく──天井絵と天海僧正
天海僧正の思いをつないで上野は芸術と文化の街に
手塚雄二画伯に天井絵を依頼したのが寛永寺貫首の浦井正明さん。その経緯と寛永寺を創建した天海僧正とはいったいどんな人であったのか伺いました。
寛永寺貫首 浦井正明さん(うらい・しょうみょう)
1937年生まれ。令和2(2020)年より第32世東叡山輪王寺門跡門主・寛永寺貫首。上野、徳川家の研究者でもある。著書に『「上野」時空遊行』『上野寛永寺 将軍家の葬儀』など。
手塚さんとのおつきあいは古いんですよ。最初がいつだったかはっきり覚えていませんが、まだ手塚さんが東京藝術大学の助教授になる前かもしれません。台東区の芸術文化関係の財団の理事を一緒にやったりして、文字どおり肝胆相照らす、何でも言える仲でやってきました。
10年ほど前に「寛永寺は古い建物だし、装飾もない。2025年に創建400年を迎えるので、その記念行事として天井絵を描いてもらえないですか」と話したのが今回のきっかけなんです。
「やりましょう」と快諾してもらいましたが、その時の私の発想は三間四方くらいの絵を額に収めて根本中堂の中央に飾るというものだったんです。天井全面に描くなどとても負担だろうと、最初から考えてなかったんですね。
ところが、手塚さんは現場を見て、「どうせやるならこの天井全面に描きたい」と言う。私としてはできるのならもちろんそれに越したことはありません。そしてこれだけの大きさの天井絵としては何を描くかといったときに、だったら龍だろうという判断になったんです。きっとお互いに言いだしたのですね。
板に直接描き始めると龍が動きだした
今の根本中堂は寛永15(1638)年の建物ですから、紙に描くのではなく板に直接描くのがいいということになりました。私は新しい板を用意してそれに描いてもらうつもりでしたが、手塚さんが「古い建物に新しい天井はおかしくないですか」と。天井板は、もう400年近く経っているので汚れも傷もある。でも手塚さんは「そういうものに描いたほうがこのお堂にふさわしいのではないですか」と言うんですね。ということで、古い天井板そのものに描くというのは手塚さんの発想なんです。
和紙に描いた大下図を見たときは、実はそれほど迫力を感じなかったんですよ。ところが板に描き始めたら全然迫力が違うんですよね。龍に動きが出てきた。絵のない部分は、それはそれで板目が出るからいいんじゃないかというのが手塚さんの考えでしたが、でき上がってくると、たしかに板目が生きてますよね。そういう点では、手塚さんはさすがです。
私は手塚さんの絵については昔から日本画壇で一番と思っています。一言で言うなら手塚さんの絵には精神性があるんです。たとえば一本の芒(すすき)に蜻蛉(とんぼ)や蟷螂(かまきり)がとまっているだけでも、そこには集中した、何かぎゅっと収縮していくようなものがある。そこに精神的なものを感じるんですね。言うなら宗教性でしょうか。それを失ったら単なる綺麗な花鳥画になってしまうでしょうね。
寺は庶民のためのもの。天海僧正の思いは今も上野に
天海僧正という方は非常に交際範囲の広い人で、寺や幕府に限らず、朝廷でも、大名でも、一般の人でも、分け隔てなくつきあう人でした。だから寛永寺を造るとき、天海僧正は徳川幕府のためだけのお寺ではだめだと考えたんですね。
お寺というのは庶民が普段から自由にお参りできて、楽しめる場所だ。徳川家が造るのだから徳川幕府の寺でいいが、四六時中、将軍や大名が訪れるわけではない。そうでないときに庶民が自由に出入りできる寺にするべきだ、というのが天海僧正の根本的な考え方でした。
『慈眼大師肖像画』(東京都指定文化財・本覚院蔵)家康の頃から朝廷とのパイプ役として活躍。
江戸時代初期の江戸の庶民は、京都に清水寺という舞台造りのお寺があるとか、八坂の祇園様が有名だとか知ってはいても、幕府が庶民の旅行を許可していないので行くことができませんでした。そこで天海僧正は、延暦寺が山科と近江の国(京都府と滋賀県)にまたがっているので、その両方の名所(などころ)を江戸に移すということを考えるんですね。中世から流行っていたいわゆる「見立て」です。そのやり方は徹底していました。
近江の竹生島は不忍池の中之島として辯天堂を造る、京都の方広寺の大仏様を模して上野の大仏様に(関東大震災で壊れ、現在は顔のみ残る)、清水寺は清水観音堂に、八坂の祇園様は精養軒の近くの祇園堂にと、そんな具合です。
そしてさらに徹底したことに、建物だけではなく、本尊さんも持ってくるという形をとります。たとえば、京都の清水寺からいただいた観音様を清水観音堂に祀る。宗派も何も違うわけですが、構わず現地に頼んで仏さんを江戸に移す。そうすることで、江戸の庶民は喜んでお寺にお参りに来るし、そこが遊山の場所にもなるわけです。
しかし、徳川家は最初から徳川だけの寺でよいという考えなので、天海僧正と幕閣は対立していました。
天海僧正は幕府に頼らず、御三家や大名の力を借りて堂宇を増やして、東の叡山を整えていったわけですが、寛永2(1625)年に寛永寺が発足してから元禄11(1698)年まで、寛永寺は本坊はあっても本堂がないという、寺として異常な形でした。結局、天海僧正は生きている間にそれを見ることはありませんでした。死ぬまで幕府と喧嘩です。
要するに是々非々の人なんですよね。幕府が相手であってもおかしいことはおかしいと平気で言う。目の高さが常に庶民にあるんですね。
〔不忍池で花見を楽しむ江戸の庶民たち〕
歌川広重『東都名所 上野山王山・清水観音堂花見・不忍之池全図 中島弁財天社』(国立国会図書館蔵)。天保年間(1830~1844年)の不忍池は令和の今に引き継がれている。
今の上野公園のあり方は当時とまったく変わってはいますが、こういった天海僧正の考えていたことを引き継いでいると思います。明治に入り、上野公園の場所に陸軍の兵隊の墓地や病院を造ろうとしていたのを大久保利通が覆して、動物園や博物館を構想し、今の上野の姿があります。
東京国立博物館や国立科学博物館が中心にあって、一般の人が自由に出入りして花見や芸術を楽しみ、多くの人で賑わう。それは天海僧正の思い描いた世界といえるのではないでしょうか。
(次回へ続く。
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