〔特集〕上野・東叡山寛永寺 創建400年の天井絵 手塚雄二・龍を描く 徳川家の菩提寺として知られる上野の東叡山寛永寺は2025年に創建400年を迎えます。同年その創建記念として、寛永寺の中枢である根本中堂に初めて天井絵が奉納されます。中陣の6×12メートルという天井に入る絵を任されたのは、日本画界を代表する画家、手塚雄二画伯。題材は龍、そして400年近くを経てきた天井板に直に描くという道を画伯は選択しました。その精神は、寛永寺を創建し、今の上野の基礎を築いた天海僧正(慈眼大師)の精神とも重なるようです。この特集では、天井絵のパワフルな制作の現場に密着。併せて寛永寺と上野の魅力に改めて目を向けます。令和を代表する絵の誕生に立ち会えた私たちに龍は福をもたらしてくれるかもしれません。
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天海僧正の見立てで造った
不忍池辯天堂(しのばずのいけべんてんどう)と清水観音堂(きよみずかんのんどう)
比叡山延暦寺を上野に再現しようとした天才的なプロデューサー天海僧正。その精神は現在に受け継がれ、目論見どおり人々の拠り所として定着したのです。
7月上旬の朝、蓮池と、芸能と財産の神、弁財天を祀る不忍池辯天堂。
上野公園の桜並木とともにランドマークとなっている不忍池。池は蓮池、ボート池、鴨池と3つに区切られ、特に3〜4月の桜と7月の蓮の開花期には、周囲は散策を楽しむ人たちで賑わいます。蓮の開花の最盛期に、蓮池にせり出した蓮見デッキと呼ばれる周回路を行き、視界が蓮で埋め尽くされると、東京にこんな場所があることが不思議にも思えてきます。蓮も桜も江戸時代から植えられていて江戸の庶民も同じように楽しんでいたのです。
不忍池辯天堂の手水舎。水を司る龍神はここにも。
不忍池の中央には天海僧正が琵琶湖の竹生島に見立てて築いた中之島があり、そこに八角形で丹塗りの不忍池辯天堂が建っています。当初は島に舟で渡り、お参りをしていましたが、寛文年間に島と岸から埋め立てて橋で結ばれました。辯天堂はその後、昭和20(1945)年の空襲で焼け落ち、現在の建物は昭和33(1958)年に復興されたものです。ビルが周囲に建ち並ぶ不忍池界隈において、朱の辯天堂はくっきりとその姿を浮かび上がらせています。
徹底して比叡山にこだわった天海僧正の見立て
その辯天堂を見下ろす、上野の台地でひときわ高い場所に位置するのが、京都・清水寺を模した清水観音堂です。
清水寺を模した清水観音堂。
清水観音堂は戦災による焼失を免れた数少ない堂宇の一つで、建立は寛永8(1631)年。単層入母屋造りで、辯天堂に向かって張り出した舞台はまさに小さな清水寺。歌川広重の浮世絵にも描かれた「月の松」は江戸の植木職人によって輪の形に丸く仕立てられた松で、今の月の松はそれを現代の技術で再現したものですが、観音堂から輪を覗くとそこに辯天堂が見える仕掛けです。浮世絵にも描かれるほど、ここは江戸の名所だったのです。
〔清水観音堂の「月の松」は江戸時代からの観光名所〕
歌川広重『江戸名所百景』より「上野山内月のまつ」(国立国会図書館蔵)。
清水観音堂の舞台から月の松を覗くと、中央に不忍池辯天堂が見える。江戸の植木職人の技術の高さがわかる。
竹生島は近江、清水寺は山城、いずれも比叡山の山麓にあたり、天海僧正の比叡山を江戸に再現するという構想が形として目に見えてきます。しかも、辯天堂は竹生島の宝厳寺から弁財天を、清水観音堂は清水寺から平安中期の天台宗の僧・恵心僧都作の千手観音(秘仏)を勧請しているところに、天海僧正の形を求めるだけではない、庶民に届けようとするものの深みが感じとれるのです。
流灯会当日、灯籠を組み立てる下谷仏教会の僧侶の方々。
流灯会の法要での読経。
辯天堂では下谷仏教会が主催する流灯会(りゅうとうえ/灯籠流し)が毎年7月17日に執り行われていて、灯籠の受付所には多くの人が列をなします。
流灯会の法要を終え、灯籠を手に不忍池に向かう。
蠟燭の火がゆらめく灯籠。
夕刻、灯籠を手にした僧侶たちが辯天堂の前に静々と集い、法要が始まると、厳かな雰囲気に。上野公園に立ち寄った多くの外国人観光客も読経(どきょう)にじっと耳を傾けています。池に流された灯籠が小さな明かりの数々を池に灯し、次々と消えていくとき、上野公園の賑わいは一瞬静まり、亡き人への祈りに包まれます。
(次回へ続く。
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