〔特集〕上野・東叡山寛永寺 創建400年の天井絵 手塚雄二・龍を描く 徳川家の菩提寺として知られる上野の東叡山寛永寺は2025年に創建400年を迎えます。同年その創建記念として、寛永寺の中枢である根本中堂に初めて天井絵が奉納されます。中陣の6×12メートルという天井に入る絵を任されたのは、日本画界を代表する画家、手塚雄二画伯。題材は龍、そして400年近くを経てきた天井板に直に描くという道を画伯は選択しました。その精神は、寛永寺を創建し、今の上野の基礎を築いた天海僧正(慈眼大師)の精神とも重なるようです。この特集では、天井絵のパワフルな制作の現場に密着。併せて寛永寺と上野の魅力に改めて目を向けます。令和を代表する絵の誕生に立ち会えた私たちに龍は福をもたらしてくれるかもしれません。
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寛永寺のもう一つの物語
閑(しず)かなる御霊廟(ごれいびょう)
6人の徳川将軍が眠る森と桜の墓所
寛永寺根本中堂に隣接する御霊廟は、徳川の六将軍が眠る墓所です。あまり知られることのない御霊廟の森は桜の園でもありました。
暖かな木漏れ日が差す静寂に包まれた御霊廟。基本的に非公開。
一歩中に足を踏み入れると、そこには木漏れ日と澄みきった空気が漂っていました。春を迎えたばかりの寛永寺の御霊廟の森は、木々が芽吹き、そこここに咲く桜が淡い色を添えています。
御霊廟の入り口にあたる、戦禍を免れた勅額門(重要文化財)。
点々と桜が植えられ、石垣と美しいコントラストを見せる。
桜と石垣のコントラストは美しく、知られざる桜名所といえそうですが、気配は凜と張りつめています。すぐそばを電車が通っているはずなのに静かで、視界が石垣と木によって遮られているせいか街並みは見えません。ここは徳川の歴代将軍たちが眠る、歴史と霊気に満ちた墓所なのです。
徳川の菩提寺として知られている寛永寺ですが、徳川が松平姓の頃から浄土宗の檀家であったため、徳川家の菩提寺といえば同じ浄土宗の芝の増上寺と決まっていました。
しかし、天海僧正を崇拝していた3代将軍家光公が遺言で霊廟は日光山、葬儀は寛永寺で行うよう指示したことから、4代家綱公、5代綱吉公は寛永寺での葬儀を選び、寛永寺は増上寺とともに菩提寺としての役割を担うようになったのです。
御霊廟には、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人の歴代将軍が眠ります。空襲で拝殿などの木造の建築がみな焼け落ちたものの、青銅や石の建造物は残りました。
300年間一度も開けられたことのない宝塔
重厚な存在感を放っているのは5代綱吉公の宝塔です。
「気安くお参りに行くことができない信心の篤い将軍さんは、江戸城の中に仏間を作ってお仏像をお祀りしていました。正面の扉の中にそういったお仏像が納められているので宝塔と呼びます」と寛永寺の石川亮岳さん。
5代綱吉公の宝塔。中門には鳳凰と麒麟がレリーフで描かれている。
宝塔の5メートルほど下に御遺体が眠り、300年間一度も開けられたことはありません。手前には重厚な青銅の中門があり、右側に鳳凰、左側に麒麟がレリーフで描かれています。門の向こうには、近寄りがたい気配が漂っています。
「現世にはいない伝説の想像上の動物を描くことによって、この門の向こうは人間の立ち入ってはいけない場所、極楽浄土であることを表しています」
8代吉宗公の宝塔。倹約令を出し贅沢を禁じた吉宗公の宝塔は門がない造り。
寄り添うように並ぶ13代家定公と天璋院篤姫の墓所。日暮里方面の展望が開け、ここが上野であることを思い出させてくれる。
御霊廟の一番奥には、13代家定公と正室の篤姫の墓所が寄り添うように建っています。篤姫は明治に入ってから亡くなったのでこのような形が取られたのです。紅白の椿が花びらを散らし、篤姫の好きだった枇杷(びわ)の木が植えられています。
東叡山寛永寺 創建400年記念行事と法要(予定)
創建400年を記念する催しが2025年に予定されています。
●2025年(令和7年)10月10日 創建400年の慶讃法要
●根本中堂にて寛永寺の歴史と文化のシンポジウム (台東区主催または共催。期日未定)
・手塚雄二画伯による天井絵の解説
・浦井正明門主による講演
・德川御宗家と浦井御門主との対談
●東京国立博物館にて寛永寺関連の展覧会(期日未定)
東京国立博物館に寄託している文化財の展示
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