『森と氷河と鯨』のトレイルを辿って〔特集〕星野道夫「時間」への旅
アラスカを愛した写真家として知られる星野道夫さん。アラスカの大自然とそこに暮らす人々を優れた写真と文で伝え続けた。主なフィールドは北極圏。ツンドラの広がる大地を大きな群れで旅するカリブーの写真は、見る者に生命の意味を問いかけた。
その星野さんがもう一つ大きなテーマとして取り組んでいたのが南東アラスカだった。「森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて」は、リアルタイムに南東アラスカを旅した記録で、1995年に家庭画報本誌で連載が始まる。だが、翌1996年8月、取材先のロシアで熊に襲われるという事故で星野さんは急逝。連載は中断となる。
神話の時代に思いを馳せ、示唆に富んだ言葉の数々が鏤(ちりば)められた未完の連載をまとめた本は読み継がれ、今なお新たなファンを生み出している。
「森と氷河と鯨」の最終的なテーマは「時間」だと星野さんは考えていた。いったい物語はどこに着地しようとしていたのだろう。証言と記録資料で、星野さんが届けようとしたメッセージに迫ってみた。
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特集「星野道夫『時間』への旅」の記事一覧>>>ぼくは“人間が究極的に知りたいこと”を考えた。1万光年の星のきらめきが問いかけてくる宇宙の深さ、人間が遠い昔から祈り続けてきた彼岸という世界、どんな未来へ向かい、何の目的を背負わされているのかという人間の存在の意味……そのひとつひとつがどこかでつながっているような気がした。けれども人間がもし本当に知りたいことを知ってしまったら、私たちは生きてゆく力を得るのだろうか、それとも失ってゆくのだろうか。そのことを知ろうとする想いが人間を支えながら、それが知り得ないことで私たちは生かされているのではないだろうか。
── 星野道夫著『森と氷河と鯨』「熊の道(ベアトレイル)をたどって」より
2つの出会いから壮大な物語が始まった『森と氷河と鯨』の軌跡
遺作となった『森と氷河と鯨』は星野さんにとって人生を変えるほどの大きなテーマだった。南東アラスカから北極圏、ロシアへと舞台を移していったその物語の過程を振り返ってみる。
星野道夫(ほしの・みちお)
写真家。1952年千葉県生まれ。慶應義塾大学卒業後、動物写真家・田中光常氏の助手を経てアラスカ大学野生動物管理学部に4年間在学。写真家としての活動に入り、主に北極圏をフィールドとして、写真集、エッセイ集など数々の著作を発表。1990年、第15回木村伊兵衛写真賞受賞。1996年、取材先のカムチャツカ半島クリル湖畔で熊に襲われ急逝。享年43歳。
最初の出会いは、星野さんが南東アラスカのブラザーズ島の森で撮影をしていた時のことだ。海のほうから鯨の呼吸音が聞こえ、海に出てみると氷河と森を背に鯨が悠然と泳ぐ光景に出会う。その瞬間に「森と氷河と鯨」という形で南東アラスカをまとめる構想が頭に浮かんだという。連載が決まる前から星野さんは少しずつ南東アラスカの撮影を進めていた。
右が上製本の初版、その後左の並製本、文庫版も刊行された。
連載が決まり、南東アラスカの自然を一年にわたって紹介していくという大前提に加え、編集部としては、連載がひと続きの大きなストーリーとなっていること、また謎解き的な伏線のテーマがあるといいというのが希望だった。
星野さんからのFAX ──
「もう少し考えたいのですが、漠然と思いついたことを書きます。
一つは“神話の力”というテーマです。神話というのはただの面白い昔話ではなくて、また現代とは何の関わりもない話でもなくて、人間が生きのびてゆくための力を持っているような気がするのです。つまり人間がこれからどこへ行こうとしているのかわからなくなっている時代、そこで失(な)くしてしまった一番大事なものが神話だということ。それを一貫したテーマにすること。
もう一つは昔話、創世神話で必ず登場する、そして最も謎をひめた生き物、ワタリガラス(Raven)をテーマにするもの。これはもう少し考えねばなりません。これは僕にとってとても大きなテーマなので意図的な撮影・取材をしようと思っています」
そして少し経って次のような連載各回の構成プランが送られてくる。
1 序章
2 森の中に入ってゆく(養木、輪廻)
3 トーテムポール
4 光(ワタリガラスの神話から)
5 ジュノー大氷原の夜
6 グレイシャーベアを求めて
7 鮭(死)──鮭が森をつくる
8 ザトウクジラ(採食行動を中心に)
9 氷河期の忘れ物
10 インディアンの古老たち
11 ワタリガラスとは?
12 何かしらの旅の結論を出す
写真は既にあるものでも多くを新たに撮り直すつもりだと記されている。
原稿は米国のFAXのサイズに合わせて、左右がカットされている。
連載第1回は、冒頭に書いたブラザーズ島での体験の話から始まるはずだった。ところが連載開始直前、編集部に現れた星野さんは、「すごいことがあったんですよ」と切り出した。南東アラスカの港町シトカで、墓守をしているボブ・サムという口承神話の語り部の男と出会ったという。