あなたは噓がつけますか?
仕事の打ち合わせのために、毎週いろんな人と会います。
以前は男性の編集者やジャーナリストが多かったのですが、最近は女性が増えてきた。
若い人もいれば、年配のかたもいらっしゃる。いずれも仕事の上ではプロです。
昔は「男性に伍して」などと失礼な言い方もありましたが、今では逆。
仕事の面だけでいえば、むしろ男より優秀な人のほうが多いのは事実です。しかし、ときおり男性の編集者がやってくると、正直ほっとするのはなぜでしょうか。
私はもう平均寿命をとっくに過ぎた歳ですから、若くてチャーミングな女性編集者が現れたところで、ぜんぜん緊張したりはしません。
それでも男性とのほうがなんとなくリラックスできるのはどうしてだろう、と考えました。
男は自然に噓をつく?
男同士だから、などといった単純な理由ではないはずです。
お互いプロとしての配慮もありますから、遊び仲間みたいな気やすさはないし、ざっくばらんの関係でもない。
しかし、なんとなくくつろいで、話がはずむ。
その理由はなんだろう、と考えました。あれこれ検討したのですが、結局、たどりついたのは、こういうことでした。
男の編集者やジャーナリストは、噓をつく。
それに対して女性編集者は、ほとんど噓をつかない。
噓、といえば悪いこと、と反射的に思うでしょうが、必ずしもそうではありません。
噓にもいろいろあります。悪意のある噓は困りますが、善意の噓というのもあれば、面白半分の噓もある。
その場を盛りあげるために、五のことを七とか八とかに誇張する噓もあります。
正直でありさえすれば、それでいい、という発想は、それはそれで立派なのですが、どこか怠惰な気がしないでもありません。
若い女性編集者で、とても仕事のできる人がいました。人柄もよく、よく気がつき、礼儀正しくて勉強家。
言うことのない有能な編集者なのですが、私には一つだけ不満がありました。
約束の場所に打ち合わせで出かけていく。こちらの顔を見ると、彼女は必ず憂いをおびたまなざしで眉をくもらせ、
「お疲れのようですね。大丈夫ですか」
と言う。こころから心配しているようなその口調と表情に、こちらもつい引きこまれて、
「いやあ、昨夜も徹夜してしまったもんですから。もう、ふらふら」
と、精一杯、やつれた顔をつくる。
そうすると不思議に疲労困憊(ひろうこんぱい)した気分になって、がっくりと肩をおとしたりするのは演技ではありません。
「ご無理はなさらず、お大事になさってください」
「いや、もう駄目ですよ」
と、コップの水を飲んだりするのも情けない。
この人はたぶん、本当に正直なんだと思います。人間、九十年も生きれば、だれでもくたびれる。彼女から見て、こちらがすり切れはてた人間に感じられても不思議はありません。
慈悲にみちた噓
ところが、ぶらりとときどきやってくる男性編集者の某氏は、正反対です。
顔を見たとたんに大声で、
「やあ、相変らずお元気そうでなによりです。前にお会いしたときよりも、きょうのほうがずっと顔色もいいし、それに姿勢もしゃんとなさってる。うらやましい」
と、満面の笑顔。
こちらもつい乗せられて饒舌(じょうぜつ)になったりするのですからお笑い草です。
彼の言ってることは、明らかに噓です。しかし悪意をもって吐く噓ではない。ある意味でそれは激励のメッセージみたいなものでしょう。こちらもそれがわかった上で嬉しくきいているのです。
人間はどんな場合でも他人との交流のなかでしか生きられません。そんな人づき合いのなかで、絶対に噓をつかないことだけをモットーとして生きるのは、必ずしも望ましい生き方とは思えない。
大丈夫ではない人に「大丈夫?」と声をかけるのは真実ではありません。噓とわかって「大丈夫!」とはげまし、その言葉を噓とわかりつつも嬉しく思うのが、人間同士の交流というものではないでしょうか。
「私は噓を申しません」
というのは政治家の言葉です。
男は多分に政治的人間ですから、ごく自然に噓をつきます。文明社会とは、正しい噓のつき方をマナーとして育ててきた社会なのかもしれません。
噓か真実か、ではない。噓にも大事な噓もあるし、悪い噓もある。本当のこと、というのもそうです。慈悲にみちた噓、という言葉が、ふと心に浮かんできました。
あなたは噓がつけますか?
写真/伊藤彰紀〈aosora〉
五木寛之(いつき・ひろゆき)
1932年福岡県生まれ。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。1966年『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。1967年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。代表作に『青春の門』『大河の一滴』『親鸞』『燃える秋』『朱鷺の墓』など多数。近著に『新・地図のない旅』(全3巻)。