引っ込み思案のあなたに
先日、ひさしぶりで京都へいってきました。
京都は私にとって懐しい街です。私がようやく中年にさしかかった頃、しばらく京都に住んでいたことがあるからです。
旅行者としてではなく、ちゃんと地元の税務署に税金を払って住んだのですから、住んだ、と称しても噓ではないでしょう。
当時の住所は平安神宮に近い聖護院円頓美(えんとみ)町。
すぐ裏に銭湯と、ジャズの名店〈YAMATOYA〉があるという贅沢な場所でした。
猫の額のような小さなマンションでしたが、当時は道路をへだてた正面が音楽大学の施設でした。朝からヴィオラやチェロの音で目が覚めるという優雅な立地に惚れこんで決めたのです。
四十の手習い、ではありませんが、昼間は仏教系の大学に聴講生として通い、夜は夜であちこちをほっつき歩くという、今から思えば極楽トンボのような暮らしでした。
目垢(めあか)って何?
先日京都を訪れたときに、昔の古戦場といいますか、往時、ときどき梅原猛さんや司馬遼太郎さんなどに連れていってもらった小料理屋さんに顔をだしてみました。
さすがに歳月の流れは速いもので、むかしの女将(おかみ)さんはすでに退任。
今は息子さんと若女将さんが店を切り盛りしているのを、横で眺めているという、悠々自適かどうかはわかりませんが、古いお客がくると顔を出すというポストです。
私の顔を見て、ひとしきり昔ばなしで盛りあがったあとに、こんな話をしてくれました。
「センセ、こないだひさしぶりにKさんが来はりましてね」
「ほう、あのかたも、もう相当なお歳だし、とっくに隠居なさったんじゃないのかい」
「とんでもあらしまへん。九十を過ぎはってますますお盛んで。うちも見習わなあきまへんわ」
「そんな真似、せんといてな」
と、すかさず息子さんの茶々がはいります。
「Kさんな、こんど若冲(じゃくちゅう)の絵を買わはったんやて」
「ほう、それはすごい。本当かね」
伊藤若冲は言うまでもなく、江戸中期の日本画の大画家です。私も何度か本の装画に使わせて頂いたことがありますが、まだ実物は拝見したことがありません。
「それで、その絵を見せてもらったのかね」
「いいえ、まだ見てしまへん」
と、老女将は手をふって、
「いろんな人に見せると目垢づくさかい、人には見せんようにしとる、と言わはって」
「メアカ?」
「ほら、手垢とかなんとか言いますやろ。あれと同じで、いろんな人に見せると目垢がつく、言わはって」
「へえー。目垢ねえ。はじめて聞いた」
「言われてみれば、なんかほんまらしゅう思えてくるとこもあるけど、センセ、どう思わはります?」
「うーん」
「私なんか若い頃から目立つもんで、みんなにようけ見られてきましたやろ。目垢だらけで、こんなんになってしもうたんやろか」
「目垢じゃなくて手垢ちゃいますの」
と、息子さんは手きびしい。
「やかまし!」
と、どうやら内戦状態。
見られることで成長する
それにしても「目垢がつく」とは、不肖、作家生活六十年あまりの私にも初耳でした。
どうなんだろう、と考えてしまいます。
私がはじめて北欧を訪れたのは一九六五年の夏でした。ノルウェーのオスロで、エドワルド・ムンクの『叫び』を見たときの衝撃は、今も忘れることができません。
なにしろあの名作が、入館したその場所にでんと飾られていたのです。それこそ手をのばせば指で触れるぐらいの距離で。
私はしばらくその場に立ちつくし、動くことができませんでした。夢にまで見た『叫び』の実物が、息を吹きかけることができそうな位置で目の前にある。
その頃は、まだムンクも、『叫び』も、それほど有名な作品ではありませんでした。解説書などには、「ムンク」ではなく「ムンチ」と紹介されていた時代です。
ゴッホの『ひまわり』も、ムンクの『叫び』も、数限りない人々の「目垢」によって成長してきた作品なのではないか、と私はひそかに考えています。
私はこれまで自分の本を作るときに、数多くの画家の作品を表紙に使わせてもらいました。
エドワルド・ムンクをはじめ、クリムト、エゴン・シーレ、竹久夢二、などなど。
もしも本当に目垢などということがあるとすれば、私も犯人の一人ということになるでしょう。
しかし、私はそうは思いません。人々の視線によって作品は成長するのではないか。
私はそんなふうに考えているのです。
みなさんがたも、人の視線を集める、人に注目される、目立つ、ことなどをおそれることなく、胸を張ってそれを受けとめてください。
目垢も目ヤニも関係ないのです。人は見られることによって成長する。そう思います。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》先日、ひさしぶりで金沢へ行ってきました。能登出身の画家、西のぼるさんと、能登の民謡を歌う加賀山紋あやさん。それに私が能登の歴史を語る『能登に寄する唄』という催し。地元のテレビ金沢の主催でしたが、能登の一日も早い復興を祈るばかりです。