あなたの自慢はなんですか
自慢、というと、いかにも良くないことのようなイメージがあります。
しかし必ずしもそうではありません。
人間は本来、自慢したい生き物です。
自己顕示欲はだれにでもある。
雄(おす)の孔雀が見事な羽根をひろげるのもそうです。産まれたての赤ん坊が必死で泣くのもそう。女性が化粧するのも、ボディビルダーが筋肉を誇示するのも、エリートサラリーマンがロレックスの腕時計をするのも、みんな自慢のタネでしょう。
古来、人間をふくめて、生物は競争社会に生きてきました。他の競争相手に差をつける、そのことで生き残ってきたのです。
どんな謙虚な人でも、心の底には自慢したい気持ちがどこかにある。だれでも素直に自慢したいのです。
私たちも自慢したい気持ちを抑える必要はないのですが、そこにブレーキをかけるのが、いわゆる教養とか、気くばりとか、マナーとか、そんなものでしょう。
正しい自慢とは
自慢にも、いろいろあります。
優雅な自慢もあれば、恥ずかしい自慢もある。
学歴自慢とか、家柄自慢などというのは、お話になりません。孫や家族の自慢も一度はともかく、二度と聞きたくはないはず。
病気自慢というのも厄介です。
運転免許証の〈優良運転者マーク〉は、まあ、いいでしょう。
ブランド商品の自慢とかは、まあ、かわいいほうかも。
いつか対談の仕事でお会いした女優さんは、
「これ、ニューヨークで買ったパチもんのブランドだけどさ、ほんものそっくりでしょ。すっごく安かったの」
と、派手なバッグをふり回してご機嫌でしたが、こういう自慢もちょっと疲れます。
しかし、自慢をするということ、そのこと自体は決して悪いことではありません。
〈謙譲の美徳〉などといいますが、いまの世の中は、ちゃんと自己主張をしなければ生き残っていけない競争社会です。
私たちは、明るく正しく自慢をする必要がある、と私は思います。
メイクやダイエットの勉強も大事でしょう。しかし、相手を不快にさせたり、馬鹿にされたりすることなく、自分のことを認めてもらうことも必要です。
最近、〈自己承認〉という言葉をしきりに耳にするようになりました。
その言葉は、この自分が何者であるかをちゃんと認めてほしいという欲求です。
たとえそれが世間的にはささやかな存在に過ぎないとしても、一箇の人格をもった人間として認めてほしい、という願望でしょうか。
どんな人でも、自分がこの世で、何者かであると承認されたい、と内心ひそかに感じているのです。
そのために自分を誇ることは、決して単なる自慢話ではありません。
人はだれでも〈なにもの〉かでありたいのです。それを相手に認めてほしいのです。
ブランドの自慢をする人は、かならずしも商品の高価さを自慢しているわけではない。その高価な品を身につけるにあたいする自分であることを訴えているのではないか。
あなたがもし友人との会話のなかで、ほとんど自慢をしない、もしくは罪のない自慢しかしない人だったとしたら、それはすでに〈自己承認〉がみたされているからで、必ずしも謙虚な人柄のせいだけではないように思います。
モールス信号が私の自慢
ひるがえって、自分のことを考えてみます。
私も人並み以上に自慢をします。
しかし、それはすでに過ぎ去った時代の話であり、いま通用するものではありません。
たとえば、私は昔のモールス信号の符号を打つことができます。第二次世界大戦の頃までは、どこの国でも無線通信にモールス信号を使用していました。それを打電(だでん)といいます。
モールス符号は、そのための符号です。日本では、短くキーを押すのをトン、引きのばす音をツー、と呼んでいました。「イ」の音は、トン・ツーです。「ロ」は、トン・ツー・トン・ツーです。「ハ」は、ツー・トン・トン・トンで、それで文章ができるのです。
私は少年時代に海洋少年団という組織にはいって、モールス信号や手旗信号の訓練をうけました。いまでも、手旗信号は憶えています。
私が新人作家としてデビューしてまもなく、文壇のパーティーに呼ばれて出席しました。
そのとき、宴たけなわとなって新人作家に、何かやれ、と先輩から命じられました。
四、五人の新人作家がいたのですが、それぞれ器用に歌ったり、芸をして好評でした。
私の番になり、これといった芸のない私は、
「いまから手旗信号をやります」
といって、海洋少年団仕込みの手旗信号をやったのですが、全く拍手がありませんでした。
でも、いまも私のひそかな自慢は、モールス信号と手旗信号です。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》何十年も深夜族の生活を続けてきたのが、数年前のコロナ流行以来、突然、朝型人間に変ったのですが、最近、また夜ふかしのクセが出てきました。後もどりしなければいいのだが、と心配している今日このごろですが、どうなりますことやら。