〔特集〕甦った「天下一の田舎家」(前編) 名古屋を代表する近代数寄者・森川如春庵。彼が茶の湯の場として過ごした「田舎家」が、数十年の時を経て復元されました。4月の桜咲く頃、益田鈍翁が「天下一の田舎家」と賞賛したその古民家に、如春庵と深いご縁の人々が集い、新しい門出と未来を祝う一会を楽しみました。
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数寄者・森川如春庵の茶空間に集う数寄者潮田洋一郎さん(うしおだ・よういちろう)1953年東京生まれ。数寄者。東京大学、シカゴ大学卒業。LIXILグループ元CEO、元取締役会議長。大師会、光悦会評議員。著書に『数寄の真髄』ほか。
如春庵曽孫森川真衣さん(もりかわ・まい)1993年愛知生まれ。如春庵の曽孫。森川家は、信長と対立していた岩倉織田氏の附家老で、一宮に移り住んで400年余の歴史を持つ庄屋の家柄。
谷松屋戸田商店社長戸田貴士さん(とだ・たかし)1981年大阪生まれ。3年間のフランス留学を経て2021年に、江戸時代から続く茶道具商・谷松屋戸田商店の14代目当主となる。
寄付
本阿弥光悦書状 赤茶碗進呈
覚王山 日泰寺内に見事に復元された田舎家の前に佇む本日の茶会の主客。
今回の茶席の亭主、潮田洋一郎さんは実業家であり、名物道具などを自在に使いこなす、いわば近代数寄者の系譜を現代に引き継ぐ茶人です。
正客は森川如春庵の曽孫で名古屋在住、今後この田舎家を活動の場としてゆく森川真衣さん。詰めとして席を衛(まも)るのは、如春庵とゆかりの深い大阪の茶道具商・谷松屋戸田商店社長の戸田貴士さん。潮田さんは如春庵遺愛の道具などを携えて、東京から参じました。
かつて近代数寄者の雄・益田鈍翁が年の離れた如春庵と親交を深めたように、新たなスタートを切る若き真衣さんと田舎家のために、心尽くしの茶が始まります。
解体されて、長らく保管されてきた如春庵の田舎家
森川真衣(以下、森川) 本日はどうぞよろしくお願いいたします。
戸田貴士(以下、戸田) こちらこそどうぞよろしくお願いいたします。
森川 今日は大阪からお出ましになったのですね。谷松屋戸田商店様は、曽祖父の如春庵とご縁の深いお道具商とお聞きしています。
戸田 はい。私の祖父の鍾之助が名古屋の宇治屋出身というご縁もあり、お出入りさせていただいておりました。
森川 そうなのですね。
戸田 田舎家といっても立派な建物ですね。ここ寄付の間には大きな囲炉裏があって。真衣さんは、茶人関係者の協力や森川如春庵顕彰会の尽力で、この建物が復興する過程をずっとご覧になってきたのでしょうが、ここまでの道のりは短くはなかったのでしょう。
森川 おじいちゃん(曽祖父・森川如春庵のこと)が、この田舎家でお茶を楽しんでいたという話は、祖母からも聞いていました。訪ねると、いつもお茶を点ててくれたとか、お菓子を食べさせてもらったとか。しかしおじいちゃん亡き後、建物は名古屋市に寄附されてから取り壊され、材は保管されてきたのですが、移築する場所が見つからずにそのままになっていました。ようやく日泰寺様のご高配を得て、再建することができました。
戸田 森川如春庵の貴重な茶の遺構ですから、素晴らしいことですね。
掛物「赤茶碗」の文字に、亭主が企む謎かけのヒントが
寄付の書は、本阿弥光悦が作庵に宛てた書状。「一昨晩令出京候由 あかちやわん令進 入候尚懸御目候此 中被入御情段 可申逹候恐惶かしく 光悦(花押)」とあり、上洛した作庵に赤茶碗を差し上げたいと伝えている。
森川 ところでこの壁に掛かる書はどういったものなのでしょう。
戸田 これは本阿弥光悦の手紙です。「一昨晩、出京せしめ候由」。2行目冒頭に「あかちやわん」の文字が見られます。寄付から光悦の書となると......。
森川 「あかちやわん」ですか。
戸田 手紙を宛てた相手に赤茶碗を一つ差し上げたいと書いてあるのです。茶席では寄付に亭主のメッセージが隠されていることがよくありますから、これは潮田さんの謎かけでしょう。光悦の赤茶碗といえば、思い当たる節があります。
森川 そういうお話を伺うと、本席がどんなしつらいなのか期待が膨らみますね。
濃茶席
益田鈍翁一行 花開萬国春
如春庵田舎家古材 竹花入
〔如春庵と鈍翁。直心の交わり〕益田鈍翁の一行書。晩年87歳の時のもので、花が咲き誇る春の風情を表現している。
本席に入ると、益田鈍翁筆「花開萬国春」の一行書と、煤竹古材の花入に入る白椿が、客たちを迎えます。
明治維新後の日本経済を動かし、三井財閥を支えた実業家でもあり、近代数寄者の中心人物であった鈍翁と、名古屋の素封家に生まれて数寄三昧の日々を送っていた如春庵との間には、茶の湯を通して千利休のいう「直心(じきしん)の交わり」があったことが、多くのエピソードにより伝えられています。
当時の数寄者の間では、茶の空間として田舎家が流行っており、東京から如春庵を訪ねた鈍翁は、おそらくこの田舎家での茶を大いに楽しんだことでしょう。
2つ目のメッセージは鈍翁の思いがこもる一行書
潮田洋一郎(以下、潮田) ようこそおいでいただきました。今日は如春庵の茶を思い一席を組み立ててみました。
森川 ありがとうございます。お床の一行書も本当に立派な堂々とした書で、文言からも田舎家が一気に華やぎます。
潮田 今の季節はちょうど花が一斉に開いているということなのですが、益田さんはこの書に平和への思いも込めたのではないかと、私は思っているのです。
床の間に掛かる花入は、かつてこの田舎家の一部であった古材を用いている。白羽衣椿の蕾と芽吹いた満作の枝に春の息吹を感じる。
戸田 これは87歳の時の書ですね。
潮田 たしか90で亡くなられているから最晩年に近い。昭和のはじめ頃で、政府の政策がどんどん強行になっていく時期です。平和が続くようにと願いを込めて書かれたのではないかと。昨今の世界情勢を見て、また同じことにならないことも願って掛けました。
戸田 寄付に光悦の書状が掛かっていましたね。本席に入ると鈍翁の一行。今日は如春庵ゆかりの場所での一服ですから、茶碗といえばあれしかない(笑)。
潮田 そうやって汲み取っていただけると亭主としても嬉しいですね。一服差し上げますが、森川さんにぜひじかに触れていただきたい道具をととのえています。
濃茶席
如春庵旧蔵 本阿弥光悦作 赤楽茶碗 銘 乙御前
乙御前は光悦の赤楽茶碗の最高峰として知られる。ふっくらと丸みを帯びた形、薄作りの口辺などが特徴的。
濃茶には本阿弥光悦の赤楽茶碗の「乙御前」が使われました。如春庵旧蔵の名碗で、この碗を手にした益田鈍翁が「たまらぬものなり」と箱に記しています。
乙御前の箱に記された鈍翁の「たまらぬものなり」の文字。
寄付の書状の「あかちやわん」、本席床の鈍翁の一行書は、いずれもこの茶碗を暗示する、亭主のあそび心を秘めたものでした。
如春庵が大切にしていた茶碗を、今初めて手にする曽孫の真衣さん。如春庵の茶の空間で、遺愛の道具を通し、時を超えて故人と繫がる瞬間。
乙御前の名の由来とされるお多福を思わせる碗なりや高台、手に取ると柔らかで力強い光悦の造形に吸い込まれてゆくようです。
如春庵が10代で求めたかの「赤茶碗」が登場
戸田 やはり「たまらぬもの」でしたね。
潮田 光悦の赤楽茶碗「乙御前」です。如春庵が19歳の頃に大阪の平瀬家の売り立てで落としたという。
戸田 当時、戸田商店は平瀬家にも出入りしていましたから。
潮田 外に出すべきではない名碗をうっかり出してしまうのですよね。それを若い如春庵がさっと見つけて求めてしまう。戸田さんにとってもお祖父様の鍾之助さんが扱われた思い出の茶碗。森川さんにはひいお祖父様の遺愛の一碗で一服差し上げたいと思いました。どうぞじっくりと手に取ってご覧ください。
濃茶を喫したのち、水屋であらためた乙御前を再び手にする森川真衣さん。同席する潮田さん、戸田さんのまなざしにも思いがこもる。
森川 本やガラスケース越しには何度も見ているのですが、このように手に取るのは初めてです。本当に感動です。お写真とは印象が異なっていて、色も思ったよりも少し暗く感じますし、形も手に取ってみないとわかりませんね。
戸田 道具は実際に触れてみないとわからないことがたくさんあります。見た瞬間に感じる強い独特の存在感、緊張感と柔らかな印象が共存する名碗です。
乙御前を中心とした濃茶点前の道具組。光悦と同時代に活躍し、武人であり著名な茶人でもあった織田有楽の茶杓、乙御前とともに伝わる五郎棗、黄瀬戸水指などが取り合わせてある。
釜は芦屋の霰紋に小菊を散らした格調高いもの。広間ながら田舎家のイメージとも合う沢栗の炉縁を取り合わせている
潮田 この茶碗には五郎棗が添っています。利休形以前の古格のある棗で、盆が付属していますので格の高い盆点の扱いをしています。
(後編へ続く。
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