田舎家と近代の数寄者
如春庵森川勘一郎(1887–1980年)は、名古屋を代表する茶人。本阿弥光悦作の名碗として知られる「時雨」や「乙御前」の所蔵者、また「紫式部日記絵詞」などの著名な絵画や古筆などにゆかりのある人物としても知られる。 森川如春庵画像 バーナード・リーチ筆 名古屋市博物館所蔵
明治から大正時代にかけて、茶の湯の世界ではいわゆる近代数寄者と呼ばれる人たちが活躍するようになります。主に政財界の富裕層の人たちが中心となって、それまでの茶の湯の枠にとらわれず、伝統的な茶道具とともに仏教美術などの日本美術を茶のしつらいに取り入れ、名物道具を競い合って手に入れたりしながら、茶の湯を社交サロンとして楽しむ世界が広がってゆきます。益田鈍翁、原 三渓、松永耳庵、根津青山などの数寄者は、本宅とは別に、豪商や豪農の田舎家を東京近郊の箱根や葉山などに構えて、そこで茶の湯を楽しみました。
潮田さんはそのような流行について「当時、財界人たちがアメリカやヨーロッパに渡航すると、向こうの人たちは彼らを郊外の家に案内してもてなしたんですね。ハーフティンバー様式などの田舎家だったようですが、その郊外の家が素晴らしくて感銘を受けて日本に帰ってくる。そして自分たちも茅葺きの田舎家などの建物を手に入れて、お茶をするのが一つの近代数寄者のお茶のスタイルになってゆくのです」と述べています。
1923年に起きた関東大震災をきっかけに、近代数寄者の中心的な存在であった益田鈍翁が名古屋に一年ほど疎開することになりました。これを機に名古屋の茶の湯は一気に盛り上がり、毎日のようにどこかで茶会が行われ、多い時には一日複数回の茶事に呼ばれるなど鈍翁は茶の湯三昧だったといいます。そんな中で如春庵との交流も深まり、濃茶碗として使われた光悦の赤楽に「たまらぬものなり」と箱書きを記したり、招かれた田舎家を「天下一の田舎家」と賞したりしています。
森川如春庵の茶の舞台となった、この天下一の田舎家は、江戸時代初期の建築と伝わる葉栗郡葉栗村(現在の一宮市)の庄屋住宅を、1927年頃に名古屋市千種区菊坂町の別邸内に移築したものです。如春庵亡き後、名古屋市に寄贈されましたが、1986年に取り壊されてしまい、移築場所を模索するも二転三転し、長らく収蔵庫に眠った状態となっていました。
2020年に一般財団法人森川如春庵顕彰会(代表・埜本 修)が設立され、本格的に移築場所を探し求めて、ようやく覚王山 日泰寺の境内での再建の目処がたち、2024年春に晴れて再興に至りました。ふたたび命を取り戻した田舎家は「覚春庵」(旧森川如春庵別邸)の名で今後、茶道、華道、香道などの日本の伝統文化を発信するキーステーションの役割を果たしてゆくとのことです。
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