まさか自分が……。“怒り”の指導による自己嫌悪の日々
時同じくして、益子さんは淑徳大学バレーボール部の監督に就任します。「学生たちにはバレーボールを純粋に楽しんでもらいたいと思い、監督をお引き受けしました」。
当初、同大学は関東リーグの6部という強豪とはいえないレベルで、“楽しい部活”という雰囲気。ところが、益子さんが監督になると、学生たちのモチベーションは驚くほど上がっていき、強豪校と肩を並べる3部にまで昇格。
「本当に素晴らしい学生たちで、主体的に練習に取り組み、めきめきと上達していきました。そうなると、当然さらに上を目指そうという雰囲気が生まれます。それに伴い、練習方法や指導を変えていかなければならないのに、当時の私には指導者に必要な専門的な知識がなかったので、何をしたらいいのかわからず、気持ちばかりが焦ってしまい……ついにやってはいけない、“怒り”による指導をしてしまったのです」。
大きな声を出して怒ったり、圧を与えたり。そうこうしているうちに、学生たちからは主体性が消え、益子さんの指示を待つようになってしまう。自分がされて嫌だったことを学生たちにしてしまった――その罪悪感から、どんどん精神的に追い詰められていき、通勤途中で呼吸困難に陥るほどに体調が悪化してしまいます。ある日、ついに大きな発作を起こして気を失い、病院で検査をすると心房細動(不整脈の一種)だと判明。
「先生からは『あなたの心臓はもう勝負ごとには耐えられないから、ストレスをすべて排除してください』とまで言われ、心臓の手術をすることにしました。50歳のときのことです」
“怒り”による指導の後悔から、スポーツメンタルコーチングとアンガーマネジメントを学ぶ
病気をきっかけに、「自分を変えたい」と強く思うようになった益子さん。監督を自ら退任したあと、スポーツメンタルコーチングを学び、アンガーマネジメントファシリテーターの資格を取得します。
「監督を辞めたあとも、“怒り”による指導をずっと後悔していて。でも、それを脱却しない限り、ネガティブな自分を変えられないと思ったんです」。
考え方、価値観を変えたい。そう思っても、長い年月をかけて醸成されてきた意識や観念、価値観を変えるというのは、容易なことではないはずです。
「私は病気がきっかけで変わりましたが、これまで出会った方々のきっかけは実にさまざまです。ある強豪校の監督は、選手全員から『殴らないでください』といわれボイコットされたことがきっかけ。ご本人も行き過ぎた指導だという自覚があり、マネージャーに『殴りそうになったら腕を縛ってくれ』とお願いし、それで徐々に変わることができたそうです。
また、高校の生活指導の先生は、毎朝校門で竹刀を持って立ち、髪、制服などの身だしなみから、遅刻なども怒りながら取り締まっていたけれど、まったく変わらないので、あるときから、いいところを褒めたり、生徒たちの話を聞くようにしたら、徐々に校則違反や遅刻が減っていったそうです」。
人は変わることができる――そのような思いを抱きながら、益子さんが取り組み続けた「監督が怒ってはいけない大会」の活動が評価され、2022年、さまざまな社会課題に取り組むアスリートや団体に贈られる「HEROs AWARD(ヒーローズ アワード)」を受賞します。
「ヒーローズ アワード」受賞式の様子。写真提供/日本財団HEROs
「まさか、こんな賞をいただけるなんて思いも寄りませんでした。アワードをいただけたことで、これまでの取り組みが社会的に認めてもらえたような気がして、自信にもつながりました」。
「監督が怒ってはいけない大会」のこれからと日本のスポーツ界の未来
2024年の3月には、秋田で『第一回 監督が怒ってはいけない空手大会』が開催。「ヒーローズ アワード」を受賞したことがきっかけで、“怒らない指導”を推奨する活動が他の競技を含め、広がりつつあります。当初、「監督が怒ってはいけない大会」は10年で終止符を打つことを目標にしていたそうですが、まだまだ必要だと感じているそう。
「日本は海外に比べて、メンタルコーチングやアンガーマネジメントが遅れています。特にスポーツ界は差があります。そのため、最近はビジネス界で活躍している人たちに介入してもらうことも増えてきました。ようやく今、変わりつつあるように思います。
大谷翔平さんや石川祐希さんのように、純粋に競技を愛し、主体性のあるアスリートがもっと増えてくるといいですね。そこに辿りつくまでには、厳しいことやつらいこともあったと思いますが、二人とも好きという気持ちとその競技をとても楽しんでいるように見えます。そういう、スポーツを楽しむ気持ち、好きという気持ちを育むお手伝いをこれからも続けたいです。
もちろん“怒り”による指導がダメというわけではないですが、怒りの指導を肯定するのも、言葉にするのは難しいと感じました。例えば、『監督が怒ってはいけない大会』という名前ではありますが、実は怒られることもあります。ルール、マナーを守れなかった時、取り組む態度や姿勢が悪かった時など、しっかり線引きをしてルールを作っています。
アスリートの中には怒りの感情を上手くパワーにかえている選手もいます。時には自分や仲間を鼓舞するときに怒りのパワーを使うことも必要ですし。怒りを誰に向けるのか、その感情のコントロールをしっかり行うことが重要なのではないかと。
今年のパリ五輪は、球技のチーム競技が多く出場しますよね。私たちの頃からすれば、これはとてもすごいことです。それだけ、いまの日本のスポーツ界は明るいものになりつつあるのではないかと。私もその一端を担えたら、これほど嬉しいことはありません」。
Information監督が怒ってはいけない大会公式サイト
http://masukonaomicup.com/益子直美さんの最新の活動情報SNSからご覧ください。
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@naomi.masukoX
@masukonaomi 大会の誕生から、その歩みを描いた書籍。益子直美、北川美陽子、北川新二 著『監督が怒ってはいけない大会がやってきた』方丈社(刊)