『性格と習慣』
人の性格というのはあるもんですね。
つくづくそう思うことがあります。
まず、自分自身がそうだ。
こうすればいい、とか、ああすればまずい、とか思いながらも、それができない。
なぜか反対の方向へいってしまったりする。
〈どうして自分はこうなんだろう〉
と、そのときは深く反省します。でも、その後がいけない。
〈オレって、こういう性格なんだよな〉
と、苦笑して終ってしまうのです。
性格は直せるのか
性格。
私は無精この上ない性格の持ち主です。タテのものをヨコにもしない、などという言い方がありますが、そもそもそれさえもできないのです。
なぜ、できないのか、と自問自答することがありますが、結論はきまって、
「そういう性格なんだよな」
で、終り。
たとえば外出するときに眼鏡を探す。サングラスや老眼鏡や、読書用の眼鏡や、いろいろある。
これが毎回なぜかみつからないのが不思議です。机の上から洗面所まで、くまなく探しても出てこない。
毎回こうですから自分でもイヤになることがあります。なぜ一定の場所に置くようにしないのか。大した手間でもないのに、二十分も三十分も眼鏡探しでは、約束の時間におくれてしまいそうになる。
要するに整理整頓というものが苦手な性格なのでしょう。
「眼鏡や腕時計などは、きまった場所に置いておけばいいじゃないですか」
と、若い編集者に笑われて、ムッとしたこともあります。
「それがなかなかできないんだよ」
「なぜですか」
と、相手は容赦がない。
「そういう性格なんだ」
「直せば?」
「直すって、その、なにか自分の性格を直すってこと?」
「そうです」
「それができれば、世の中は楽なもんだ。生まれついての性格だから直しようがないのさ」
「性格は改造できるって、最近、読んだ本には書いてありました」
「へえ。どんなふうにして直すんだい」
「まず、習慣化することだそうです。習慣化することで性格は改造できるらしいです」
「それなら、まず隗(かい)より始めよ、だ。きみも自分の性格を改造してみせてくれ。そうすれば、ぼくだってきみのご意見にしたがうよ」
「ぼくの性格になにか問題があるとでも?」 と、相手は不満顔。
愛すべき「杓子定規(しゃくしじょうぎ)」
「まあ、どうでもいいことだが、こういう機会に思い切って言わせてもらうことにする。たとえばきみは、あの日、ぼくと最初に出会ったとき、なんと言った?」
「えーと、おぼえていませんけど」
「きみは挨拶も抜きで、こう言ったんだ。イツキさんのその白い上衣、袖のところに何かシミがついてますよ、って」
「そうですか」
「早目にクリーニングに出されたほうがいいですね、って」
「それは善意のアドバイスで」
「そのあとに、こうも言った。徹夜で原稿を書かれてお疲れのようですが、そういうときあまり白の上衣などは、お避けになったほうがいいです。かえって疲れが目立ちますから、って」
「それも善意で」
「ウソでもいいから、そういうときは、徹夜なさったとは見えませんね、お元気でうらやましい、とか、なんとか、少し気をつかったらどうだい」
「根が正直なもんですから。お世辞が苦手な性格で」
「性格は改造できるんだろ」
「それがなかなか──」
「性格は直らないよ。ぼくなんか中学生の頃から八十年あまり努力してきたんだ。でも最近は、人の性格は直らない、と覚悟して生きている」
「じゃあ、どうすれば?」
「さっき習慣化すれば改造できる、って言ってたじゃないか」
「そう書いてありました」
「それなら、人と会ったとき、最初の言葉を習慣化すればいい」
「どういうふうにですか」
「まず、お元気そうですね、とりあえずそう言う」
「お葬式にいって未亡人と挨拶をするときもですか」
こういうタイプを昔は「杓子定規」といった。要するに融通がきかない性格である。
しかし、私は彼が好きである。
その性格は直さなくてもいいと思うのだがどうだろう。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》沖縄へいってきました。ひさしぶりの講演で、話がまとまらない。それでも皆さん、ちゃんと拍手で送りだしてくれました。沖縄の人は優しいのです。基地問題や、その他の状況のなかでも、その優しさは変らない。一泊でトンボ返りの旅でしたが、あらためて元気なうちにゆっくり訪れたいと願っています。