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美の源流である母と兄、そして民藝の師──人間国宝・志村ふくみ「いのちの色よ、永遠に」【中編】

2024.10.10

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【100歳記念企画】人間国宝・志村ふくみ 「いのちの色」よ、永遠に(中編) 重要無形文化財「紬織」保持者の志村ふくみさんが、この秋、百寿を迎えます。植物のいのちをいただき糸に染め、紬織を芸術の域にまで高めた偉大なるパイオニアの功績を辿り、決して消えることのない尊い情熱の物語をお届けします。前回の記事はこちら>>

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「志村ふくみ100歳」の記事一覧はこちら>>>

志村ふくみの美の源流とは
母と兄、そして民藝の師

〔故郷、近江八幡に心を寄せて ──〕文化勲章を受章した2015年の秋、琵琶湖畔に佇む志村ふくみさん。近江富士を対岸に望む唐崎神社から、生まれ故郷の近江八幡に思いを馳せます。琵琶湖はふくみさんの創作の原点。紫根で染めた紫の段ぼかしのきものは、随筆『一色一生』で大佛次郎賞を受賞した日に着用したもの。

ふくみさんの誕生は1924年9月30日。医師の小野元澄と豊(とよ)の第4子として生まれますが、2歳の頃に父方の叔父、志村 哲夫妻の所へ養女に出されます。


女学校時代、一人旅で近江八幡の小野夫妻の家を訪ね、そのときはまだ伯母だと思っていた豊の心遣いに特別なものを感じるようになったといいます。

その後、ふくみさんは養父母の海外転勤を機に東京の文化学院女子部に編入。実の姉のみよ子、長兄の元衞と共に吉祥寺で暮らすようになります。戦時中でありながら、図書館や映画館に通い、充実した日々を過ごします。

東京、文化学院時代のふくみさん。兄の元衞、長姉のみよ子(右)と一緒に。

出生の秘密を知った転機は16歳の時。元澄と豊が実の親であったことを知らされ大きな衝撃を受けますが、今までの疑念が不思議と解消され、豊の教えを受けながら初めて機を織るに至ります。

ふくみさん18歳の頃。1942年3月、文化学院を卒業し、養父の任地の上海に転居することに。時は戦時中。この翌年に、軍部は文化学院の自由な思想が国策に合わないとして、学校を強制閉鎖しています。

母、豊は柳 宗悦のすすめで青田五良(ごろう)に織物を学んでいた人。また、兄は病弱でしたが、絵画への創作意欲を強く持っていた人でした。

ふくみさんは後に、「母や兄の語る芸術の世界に圧倒された。今まで何か肝心なものが欠けていると思っていた空洞が、激しい勢いで満たされてゆくようだった」と語っています。

美に対して並々ならぬ感動を示し、確固たる審美眼を持つ母や兄から薫陶を受けた芸術の世界は、その後の人生を左右する道しるべになったのです。

『野の果て』手稿。志村ふくみさんが書いた童話に長兄の小野元衞さんが絵を描いたもので、「野の果てに小さな家がありました」から始まり、「男の子と女の子が仲よく住んでおりました」と続きます。芸術の薫陶を受けた兄との仲のよさがうかがえる作品。

1945年の敗戦後、兄、元衞の闘病生活を看護するために再び近江八幡に。1947年8月、兄は28歳の若さでその生涯を閉じますが、ふくみさんは彼が遺した絵画作品をひきとり、後に小野元衞遺画集を制作します。

その指導をし、装丁を引き受けたのが柳 宗悦でした。柳の助言により織物の道に進む決心をしたふくみさんは、33歳のとき、8年間の結婚生活に終止符を打ちます。

ふくみさんの蔵書で、民藝の啓蒙のために柳 宗悦が創刊した月刊誌『工藝』。柳から「上加茂民藝協団で織物を習った母のように、あなたも織物の道へ進むべき」といわれたふくみさんは、離婚後、並々ならぬ決意を持って工芸の道に。二人の娘を養父母に預け、近江で創作活動に入ります。(撮影/上杉 遥)

ふくみさんの織りの原点、母、豊の1960年頃の作品「紅葉」。渋木、藍、カテキュー(マメ科の植物)で染めた糸を、織り込んでいます。初期の民藝運動に参加していた母は、家庭との両立に苦しみ、創作を断念していましたが、ふくみさんが近江に戻り織物を始めたことで、自身もその情熱を再燃させたそう。

ふくみさんは母の影響で、柳 宗悦のほかにも、黒田辰秋、富本憲吉など、錚々(そうそう)たる工芸の師と出会う機会に恵まれます。

漆工芸を芸術の域に高め、独創的な世界を切り開いた作家、黒田辰秋作のペーパーナイフ。ふくみさんの自宅には、黒田が青年時代に制作した円卓も。黒田は「仕事は地獄だ」とも「仕事は浄土だ」とも語り、ふくみさんをこの道に導いた恩人でもあります。

富本憲吉作の染付芍薬文小壺。富本夫人と豊が友人だった縁で、ふくみさんも交流を持つように。富本からは、「織物だけだと行き詰まるから、別の世界も勉強するように」と助言をもらったそう。この壺は夫人の髪を入れていたものと同じものを、後日作ってもらったのだとか。

黒田辰秋からは伝統工芸展への出品をすすめられ、締め切りの前日に織り上げた綴織りの帯を出します。入選の知らせを受けて、ふくみさんの染織家としての人生は大きく前に進んでいきます。

近江八幡の工房にいた頃のふくみさん。母と切磋琢磨して機に向かい、12年間を過ごしています。その後、1968年に京都の嵯峨野に移り、新たな工房を構えることに。

(次回へ続く。この特集の一覧>>

この記事の掲載号

『家庭画報』2024年10月号

家庭画報 2024年10月号

撮影/森山雅智 写真協力/都機工房

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