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[短期集中連載 第1回]モネとジヴェルニー 庭こそ彼の傑作だった

2024.10.11

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ジヴェルニーの館。1階にはアトリエ、食堂、台所があり、モネの寝室は2階にあった。

終(つい)の棲家(すみか)ジヴェルニーとの偶然の出合い

印象派誕生150年となる今年、フランスでは記念の特別展が各地で開催されました。日本でも2024年10月5日(土)から国立西洋美術館「モネ 睡蓮のとき」がスタート、注目を集めています。世界文化社では印象派の巨匠モネにフォーカスした2冊、復刻版書籍『印象派のモネ「花の庭・水の庭」へ』と、パリ・オランジュリー美術館発の絵本『モネと睡蓮』を刊行。庭、睡蓮、浮世絵——晩年に向かってさらに美を模索したモネの物語を、アートライターで絵本の翻訳を手掛けた松井文恵さんが3回の連載でご紹介します。
「人生で興味あることは、絵画とガーデニングのふたつのみ。私の庭は、愛情をかけながらゆっくりと作り上げられる一つの作品で、私はそのことを誇りに思っている」と語っていたクロード ・モネ(1840-1926)が本格的に庭づくりに取り組んだのはジヴェルニーに移り住んでからのことだ。

モネはこの庭から新たなインスピレーションを得ていく。つくり込んだ庭は絵画のモティーフのつきない宝庫だった。モネは屋外で、その光の一瞬の揺らぎをとらえることに情熱を傾け、毎朝の天気が一番の気がかりだったという。窓を開けて空を見上げ、晴天ならさっそうと継娘(ままむすめ)のシュザンヌを伴って庭へと繰り出した。

ジヴェルニーの庭のベンチでくつろぐモネ。1913年頃。

ジヴェルニーの庭のベンチでくつろぐモネ。1913年頃。

なぜ、ジヴェルニーに移り住んだのか、そこからお話ししよう。それ以前は、病床の妻カミーユとふたりの息子、モネの《印象—日の出》を含む絵画のコレクターでもあるエルネスト・オシュデ夫妻とその6人の子どもたちとともにパリ近郊のヴェトゥイユで共同生活を送っていた。

しかし、1877年、オシュデ氏が事業に失敗しパリへ帰り、モネの妻カミーユが亡くなると、モネは自分の息子とオシュデ夫人のアリスとその子どもたちを連れて、1881年の冬にポワシーへ、そして1883年5月にジヴェルニーに移り住んだのだ。


パリの北西約80キ口、セーヌ河とエプト川の合流点に位置するジヴェルニーは、当時人口 300人ほどの風光明媚な小村であった。モネが偶然ジヴェルニーの駅に降り立ったのは、結婚を祝っていた一団のために汽車が駅に長く停車してしまい、時間つぶしに村を散策したことがきっかけだった。パリ郊外セーヌ河畔を愛し、住まいを移り住んだモネ。

パリ郊外セーヌ河畔を愛し、住まいを移り住んだモネ。

モネは古い農家を見つけた。バラ色の館と広大な庭、道一本を隔てたところには線路があり、セーヌ河の支流のリュ川が流れていた。総勢10人がゆうに住める庭付きのこの家を借り受けることにした。ノルマンディー風の菜園と果樹園のある1ヘクタールに及ぶ庭とりんご酒を造るための建物 。モネによってこの建物の鎧戸は緑色に塗り替えられ、壁面はピンク、白、緑に彩られた。

モネの理想を投影した、ノルマンディー式の「花の庭」

モネはここに第一のアトリエを構え、絵を描くように自分の庭をつくり上げていった。まずは、多種多様な花の咲く、通称「花の庭」を手掛けた。園芸雑誌を購読し、ときに庭師の助言を仰ぎつつ、自身の理想を実現させていった。

「花の庭」はノルマンディー式の庭園で、まず家の正面から庭の門までバラのアーチのトンネルをつくり、その両脇に畑のようにきちんと区切った長方形の花壇を整えて一年中花が咲くようにした。色のコントラストを強調したり、調和を生むような色使いを試したり、また白いレースのような花を植えて静かな雰囲気を作ったり、視野の端になるところには、アクセントや彩りを付けるために丈が高くなるような植物を植えるなどの工夫をした。

果樹やキンレンカ、ケシ、ワスレナグサなど様々な種類の野の花を秩序よく配置し、庭全体で花が咲きそろったときにどのように見えるかを考えて構成したのだ。アーチやトレリス、ベンチなども添えられた。ジヴェルニーの「花の庭」。庭と館は現在クロード・モネ財団が管理し、一般公開もされている(4~10月)。

ジヴェルニーの「花の庭」。庭と館は現在クロード・モネ財団が管理し、一般公開もされている(4~10月)。

またこの時代にはプラントハンターと呼ばれる人々が世界中から植物を集めており、キク、ハナショウブ、ボタン、フジ、ユリなど日本の園芸植物も当時ヨーロッパの本や雑誌に紹介されていた。希少価値のあるバラの品種も含み、全体で百数十種類もの植物を育てていたという。また「北斎の花」にたとえた日本の桜も後に植えられた。

庭づくりに対する情熱は高まる一方であった。1890年11月、50歳の誕生日の数日後に、「これほど美しい土地と同じような住まいを見つけることは絶対にできない」と考え、この家と庭を買い取った。

モネは旅先でも常に庭のことを気にかけ、大聖堂を描いていたときはルーアンから植物園で選んだ苗木を送り、ノルウェー旅行時には、スカンディナヴィア特有の植物の種を持ち帰った。モネの庭づくりにおいては、ときに園芸家の専門的見地よりも美的効果が優先されがちであった。たとえば、花や葉が密に重なり合い、豊かな色彩が織地のように広がる空間は、植物の生育への悪影響を指摘する庭師の反対にもかかわらずつくり上げられたのである。

庭、それはまさしくモネの傑作であり、モネは画家としても庭師としても卓越していたのだ。モネの構想はさらに膨らみ、花ばかりでなくその周りの環境にも関心を向けるようになる。1893年には「水の庭」の造成に向けて動き出した。

・第2回へ続く(10月18日公開予定)。


松井文恵 
アートライター。Sotheby’s Educational Studies, London で西洋美術史を学ぶ。ヴェルサイユをはじめ、オルセー、ウフィッツィ、ドレスデン、クレムリン、ヴェネツィア、ベルリンなど日本での美術館紹介のために海外に多数取材。図録編集や執筆また、ルーヴル美術館の日本語版解説パネル作成プロジェクトやバチカン図書館TV番組の企画などにも携わる。


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