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[短期集中連載 第2回]モネとジヴェルニー 庭こそ彼の傑作だった

2024.10.18

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睡蓮のためにつくった水の庭。花が咲いている時間はわずか5時間。それを描くモネの朝は早かった。

日本の浮世絵に魅せられて

印象派誕生150年となる今年、フランスでは記念の特別展が各地で開催されました。日本でも2024年10月5日(土)から国立西洋美術館「モネ 睡蓮のとき」がスタート、注目を集めています。世界文化社では印象派の巨匠モネにフォーカスした2冊、復刻版書籍『印象派のモネ「花の庭・水の庭」へ』と、パリ・オランジュリー美術館発の絵本『モネと睡蓮』を刊行。庭、睡蓮、浮世絵——晩年に向かってさらに美を模索したモネの物語を、アートライターで絵本の翻訳を手掛けた松井文恵さんが3回の連載でご紹介します。

第1回「モネとジヴェルニー 庭こそ彼の傑作だった」⇒


豪華な刺繍の日本の着物を身に着け、金髪の女性がフランスの国旗と同じ青、白、赤の扇を手にした等身大の肖像《ラ・ジャポネーズ》はモネの作品のなかでも印象深い。モネの最初の妻カミーユがモデルとなった1876年の作品だ。


日本への関心の高さは、1880年代の風景画に浮世絵の構図を取り入れていることからもわかる。《トルーヴィルの海岸》は広重の『東海道五十三次』にインスピレーションを得ており、以降も多数描いている。モネは30代の頃から浮世絵の収集を始め、生涯にわたり292点ものコレクションがあったという。それらの浮世絵はジヴェルニーのミモザ色のダイニングの壁一面に飾られていた。モネと日本との出合いはどのようにして始まったのだろう。

印象派の画家たちにおおきな影響を与えた日本の浮世絵。モネも数多く蒐集し、ミモザ色のダイニングの壁一面に飾った。

印象派の画家たちにおおきな影響を与えた日本の浮世絵。モネも数多く蒐集し、ミモザ色のダイニングの壁一面に飾った。

モネの友人で作家のミルボーが言うには、1871年にオランダのザーンダムで作品制作していた頃、食料品店で胡椒とコーヒーを買ったときに包んでくれたものが日本の版画だったという。モネはそれを見て感銘を受け、歌麿、北斎、広重の作品に傾倒し集め出した。彼は特に広重を「日本の印象派」と呼んでいた。亡くなる数年前に黒木三次・竹子夫妻や松方幸次郎(注)がジヴェルニーを訪問したときには「日本人が私を理解してくれることは特に嬉しい。なぜなら、彼らは自然を深く感じて表現した、私の師匠なのだから」とも語っていたという。

ジヴェルニーへは、日本人も多く訪問した。左から黒木竹子夫人、モネ、モネの孫リリー・バトラー、長男の娘ブランシュ、政治家クレマンソー(1921年)。

ジヴェルニーへは、日本人も多く訪問した。左から黒木竹子夫人、モネ、モネの孫リリー・バトラー、長男の嫁ブランシュ、政治家クレマンソー(1921年)。

広重はその時代の日本の生活風景、川端、橋の上、村祭り、湖畔の庭園などを描いている。日本の浮世絵は、因習にとらわれない生活様式「浮世」を表した。これらは印象派の画家たちが描き続けてきたものに通じる。なかでもモネは庭園や風景の描写にひかれた。1850年代に刊行された広重の『名所江戸百景』には、川にかかるしだれ柳、水面に咲く花菖蒲、そして日本の橋に咲き誇る桜の花などが描かれており、これらのテーマや大胆な描き方をモネは作品に取り入れていった。

「水の庭」に睡蓮を浮かべて

1893年、モネは庭の南端を通っていた鉄道に沿って広がる1,268㎡の土地を買い足した。そこに池をつくろうと考えたのだ。そこで、敷地内を流れるリュ川から水を引き、池からリュ川に戻す許可を県知事に求めたが、川の水を生活用水として使っていた村人の反対にあってしまう。最終的には友人のミルボーと親しくしていた村の役人に働きかけ、許可が得られたという。

当初からモネは、池を絵のモティーフとして考えていた。池を掘り、水を引き、1889年のパリ万博で初めて出合った睡蓮を取り寄せて池に浮かべ、2年後には、池の端に日本風の太鼓橋が架けられた。広重が浮世絵の中で橋と藤を並べて描いたように、橋と垂れ下がる柳の葉を描き、その太鼓橋に藤棚をつくって藤の花を咲かせたのだ。

モネは日本風の太鼓橋を池に架け、作品にも好んで描いた。花の季節には甘やかな香りとともに藤が橋を彩る。

モネは日本風の太鼓橋を池に架け、作品にも好んで描いた。花の季節には甘やかな香りとともに藤が橋を彩る。

1897年、いよいよ日本式庭園で「睡蓮」 の連作にとりかかる。以後モネが生涯を通して追求する光の表現の試みは、「睡蓮」のシリーズに完結していく。初期は、岸辺のしだれ柳などと共に睡蓮の花が咲く池が描かれた。画面の中ほどには太鼓橋が配され、 1899年と1900年の夏に集中して20点近く制作された。みなほぼ同じ構図で光の変化によって色彩を様々に変えて描かれている。描きためた作品で、1900年11月にジヴェルニーの庭の最初の連作の個展が開催された。

その後、池の拡張工事を行い、岸辺のどこからでも美しい風景を見渡せるようにし、モネは再び1903年から1908年にかけて第二連作にとりかかる。その視点は次第に水面に引き寄せられ、画面は水面のみになり、睡蓮の描き方も簡略化され、1907年以降は水面の反映こそが作品の主体となっていった。その後の手紙でモネは「水と光の反射光のみが、たえず頭の中を去来する」と書いている。

柳越しに見る、睡蓮と水面の表情。これがやがてオランジュリー美術館の《大装飾画》のモティーフへと繋がっていく。

柳越しに見る、睡蓮と水面の表情。これがやがてオランジュリー美術館の《大装飾画》のモティーフへと繋がっていく。

また色の塗り方も次第に自由に大胆に変わっていった。こうして、第二連作は1909年にデュラン・リュエル画廊で48点発表された。そのとき、モネは次のように語っている。「この睡蓮の主題でひとつの部屋を装飾したいという誘惑に囚われた。壁に沿って、同じ主題で包むようにするのだ。そうすれば、終わりのない全体、水平線も岸辺もない、水の広がりの幻影が生まれるだろう」。

注:松方幸次郎:実業家、希代の西洋美術蒐集家(1866〜1950)。松方コレクションは東京国立西洋美術館の礎となっている。当時大蔵省の仕事でパリに滞在していた黒木三次・竹子夫妻の紹介でジヴェルニーを訪ね、モネから直接作品を購入する(1921)。竹子夫人は松方幸次郎の姪。



・第3回へ続く(10月25日公開予定)。

第1回の記事に戻る


松井文恵 
アートライター。Sotheby’s Educational Studies, London で西洋美術史を学ぶ。ヴェルサイユをはじめ、オルセー、ウフィッツィ、ドレスデン、クレムリン、ヴェネツィア、ベルリンなど日本での美術館紹介のために海外に多数取材。図録編集や執筆また、ルーヴル美術館の日本語版解説パネル作成プロジェクトやバチカン図書館TV番組の企画などにも携わる。


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