〔特集〕錦秋の京都を訪ねて イロハモミジの燃えるような赤に染まる京都の秋。平安貴族たちが競い合うように和歌や日記に残した紅葉の名所は、今も私たちに眼福を与えてくれます。人気の観光地にあっても、未だ静けさの残る奥京都へ秋の美味と令和の紅葉狩りへと皆様をご案内いたします。
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名人・公任の和歌からうかがい知る
紅葉の歌に見る平安貴族の雅な遊び心
写真は南禅寺 天授庵の庭園。写真/水野秀比古
朝まだき 嵐の山の 寒ければ紅葉の錦 着ぬ人ぞなき──『拾遺和歌集』「秋」二一〇 右衛門督公任
山里の 紅葉見にとや 思ふらむ散りはててこそ とふべかりけれ──『後拾遺和歌集』「秋下」三五九 前大納言公任
文・川村裕子(武蔵野大学 日本文学研究所 客員研究員)
平安貴族の和歌からは、当時の優雅な生活をうかがい知ることができます。
『大鏡』に記録されている「三船(さんしゅう)の才(公任の誉)」の逸話から。藤原道長が主催した大堰川の舟遊びの宴で、和歌の船、漢詩の船、管絃(音楽)の船が用意されていました。どの船に乗るつもりか、と道長に問いかけられた公任は、
「朝まだき 嵐の山の 寒ければ 紅葉の錦着ぬ人ぞなき」(朝早く、嵐山から吹く風が寒いので、紅葉がはらはらと散ってきます。だから、紅葉の錦を着ない人はいないのですね)と歌い、和歌の船に乗ります。紅葉を衣に見立てた華やかな歌です。ただし、後に公任は、漢詩の船に乗ったほうが、より才が際立ったのでは、と後悔したそう。
同じ紅葉の歌でも、『後拾遺和歌集』のなかの公任の和歌「山里の 紅葉見にとや 思ふらむ 散りはててこそ とふべかりけれ」(せっかく訪ねてきたのに、山里の紅葉を見に来た、と思われるかもしれないですね。すっかり散り果ててから訪れるべきでした。)は屛風歌です。屛風歌は実際に見た紅葉ではないのです。
『後拾遺和歌集』の詞書(ことばがき)並びに『栄花物語』(「ゆふしで」)によると、藤原頼通(道長の長男)の大饗(だいきょう/正月の宴会)で詠まれた屛風歌ということです。絵には「山里の紅葉を見る人が来た所」が描いてありました。この歌は「紅葉を見に来たと思われたらいやだな(本当はあなたに逢いに来たのに)」という男性の気持ちが歌われています。
だから、紅葉の歌ですが、恋の歌の趣があるのです。単なる紅葉の歌だけではないところに平安人の粋な遊び心がうつしだされています。
和歌で紐解く平安貴族と秋
平安貴族にとって、秋はどのような季節だったのか?
平安貴族にとって、秋はもの悲しい季節。夏の暑さも去っていき、だんだんと寒さに向かって季節がうつり変わっていきます。色づく紅葉、すだく虫の音。すべてが悲しさに包まれます。
だから、秋といえば「はかなさ」が立ちこめますね。夏の盛りから徐々にうつろう季節。『枕草子』でも、「秋は夕暮れ」。そう。「春はあけぼの」から季節の時間軸がうつろっています。
さて、この「はかなさ」は景物だけではありませんでした。それは人の心に対しても歌われたのです。その最も特徴的な言葉は「飽き」です。秋が来ると好きな人に飽きられてしまうという悲しい掛詞(かけことば)。
たとえば「我が背子が 来まさぬ宵(よゐ)の 秋風は 来ぬ人よりも うらめしきかな」(私の愛しい夫が来て下さらない宵の秋風。その秋風は来ない人よりもずっと恨めしくつらいのです)(『拾遺和歌集』「恋三」八三三、曾禰好忠〔そねのよしただ〕)という歌があります。
夫が来ないことよりも、飽きられてしまうことの方がつらい。秋風のなかの「秋」に「飽き」が込められています。この歌には恋の終わりがさびしく吹き荒れていますよね。うつろっていくのは季節だけではありません。人の心もはかなくうつろっていくのでした。
なお、詠者の曾禰好忠は歌人として有名。『万葉集』などの古い言葉を使うことで、今までにない歌の形を作り上げました。
うつろいゆく季節に心を動かされた平安人
写真は『古今和歌集』の仮名序です。「やまと歌は、人の心がもとになって、様々な言葉になったもの」(やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける)と書いてあります。そう、和歌の言葉は、「人間のハート」から生まれたのです。『古今和歌集』(元永本 上:序)出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp)
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども風の音にぞ おどろかれぬる──『古今和歌集』藤原敏行朝臣
秋が来た、と目にははっきり見えません。だけど、風の音で秋の到来に気づいたのです。
【藤原敏行】三十六歌仙の一人。家集に『敏行集』がある。能筆家としても有名。
桜が咲いたらうれしい、桜が散ったら悲しい......。そして、秋が来るとさびしい......。そんな思いを形にしたのが『古今和歌集』なのです。こういう季節には「こんな気持ちになる」ということを和歌で示したのですね。今、私たちが感じる季節のうつり変わりを作ってしまったのが『古今和歌集』。これはすごいことですよね。
うつろい菊
一瞬の季節のうつろいをとらえた菊を手紙に添えて。秋~冬にかけて菊は紫に変色し、美しく照り映えます。このような一瞬の美を平安人は愛したのです。 写真/本誌・武蔵俊介
嘆きつつ ひとりぬる夜の あくる間はいかに久しき ものとかは知る──『蜻蛉日記』道綱母
嘆きながらたった独りで寝ている夜。その夜が明けるまでの時間がどんなに長くどんなにつらいものだか、あなたにはおわかりにならないでしょうね。私が戸を開けるのも待ちきれないで帰ってしまったあなたには。
【道綱母】『蜻蛉日記』作者。和歌の名手。また、本朝三美人のうちの一人。
そして、秋から冬のうつり変わりの植物として有名なのが、写真にあげた「うつろい菊」。これは『百人一首』にも入っている有名な「嘆きつつ」の歌に付けられた植物です。
菊は秋から冬に変わる一瞬、美しく紫色に変色します。「私は再度生まれ変わって美しくなったのよ。私の方を見て」という道綱母の思いがこめられた植物。このように植物に手紙を付けたものを「文付枝(ふみつけえだ)」といいました。
平安人はうつろいゆく季節の推移を敏感に感じ取っていたのですね。
紫式部ゆかりの地の紅葉
紫式部の邸宅址、“源氏庭”が美しい【廬山寺(ろざんじ)】
平安京の東に位置する廬山寺は天台圓淨宗の本山。昭和40年、考古学者の角田文衞博士によって紫式部の邸宅址と考証された。紫式部ゆかりの地として、多くの参拝客を集める。住所:京都市上京区寺町通り広小路上ル北之辺町397 TEL:075(231)0355 拝観時間:9時~16時 写真/水野克比古
紫式部の邸宅址として知られる「廬山寺」。曽祖父の藤原兼輔が建てたこの館で、紫式部は生涯の大部分を送り、一人娘の賢子(カタコ/大弐三位)を育て、源氏物語を執筆しました。花散里の屋敷もこの辺りだったという説も。
紫式部図 伝狩野孝信筆
日本が世界に誇る文化遺産『源氏物語』の作者である紫式部を描いた桃山時代の作品。式部は筆を持ち、硯箱と紙束を前に座している。
平安朝の庭園を再現した「源氏庭」は隠れた紅葉名所。イロハモミジと白砂と苔が織りなす端正な美しさは見事。
源氏物語図屛風
紅葉美しい10月、朱雀院への行幸に同行できない藤壺に見せようと、光源氏と頭中将が雅楽の「青海波」を舞った有名な場面。(左隻・第1~3扇/澪標・紅葉賀) 徳川美術館所蔵Ⓒ徳川美術館イメージアーカイブ/ DNPartcom
紫式部の氏神、錦のトンネルを抜けて【大原野神社】
藤原氏は、娘が生まれると、中宮や皇后になれるようにと大原野神社に祈り、願いが叶うと、美しく行列を整えて参拝した。300本以上の紅葉が典雅な王朝時代の趣を伝える。住所:京都市西京区大原野南春日町1152 TEL:075(331)0014 拝観時間:9時〜17時 写真/水野克比古
藤原氏の氏神である大原野神社は、寛弘2年(1005年)3月の中宮彰子の行啓の際、女房紫式部もお供したと伝えられています。
小塩山に想いを馳せた有名な歌も詠んでおり、紫式部も眺めた景観は雅な平安朝の世界へと誘ってくれます。
秋になると境内一円は紅葉に彩られ、鳥居から続く、参道の紅葉トンネルは圧巻です。
(次回へ続く。
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