『ガンバラない時代』
「ガンバッて!」
「頑張れ!」
というのはパリのオリンピック、パラリンピックでもよく耳にした応援の言葉だった。
多くの人々の、そんな声援に励まされて金メダルに輝いた選手たちも多かったことだろう。
しかし、この「ガンバれ!」という表現に、なんとなく違和感をおぼえる世代もいたのではないだろうか。
“頑張る”は昭和の名残か
先日も新聞に、
「頑張る 昭和の名残 今は『違和感』という記事がのっていて面白かった。
昭和の名残かどうかはわからないが、最近いささか現実とズレてる感じがしないでもない表現ではある。
そもそも「頑張る」という字を「ガンバル」と読めない世代さえ出てきているのだ。
「昭和の名残」といったところで、この「名残」を若い人が「ナゴリ」とちゃんと読めるかどうかさえ不安な気がしないでもない。
頑張る、と漢字で書けば、たしかに古風な感じがする。いまは「ガンバッて!」と仮名で書くほうが多い時代だろう。
「ガンバラない」
と、いうことをモットーにした新しい劇団もある。
「頑張る、って、なんとなくダサイのよね」
と、その劇団のスタッフは言っていた。
たしかにそうだ。そもそも音楽にしろ絵画や美術にしろ、遊びからはじまった世界なのだから。
スポーツを〈修行〉のように考える世界もあるだろうが、ひょっとすると修行でさえも一種の遊びかもしれないのだ。たとえそれが命がけの遊びであったとしても。
「頑張れ!」
というのは善意の励ましである。しかし、時によってはプレッシャーともなる諸刃(もろは)のヤイバでもあるのではないか。
苦労はしないほうがいい?
私も年長者として、いろんな相談を受けることがある。それぞれ切羽つまった真剣な悩みが多い。
そういうときに、いちばん簡単なのは、
「頑張って!」
と、励ますことだ。これほど無責任な言葉はない、と自分でも思いながら、つい「頑張って」とか、「頑張るしかないね」などと言ってしまって、後から後悔することが少なくない。
自分自身のことをふり返ってみると、私は随分いい加減な人間なのだが、それでも若い頃はそれなりに頑張って生きてきた。
いまはいまで、頑張っている部分もあり、かなり投げやりに暮している部分もある。
世の中には、頑張ってもどうにもならないことが沢山ある。ことに人間関係と経済の面で、そのことが生涯つきまとうことが多い。
苦労して生きたほうがいいのか、ノホホンと楽に生きたほうがいいのかは、むずかしいところだ。
恵まれて世の中に生きてきた人間には、おおらかさというか、素直さというか、うらやましいところが沢山あるのは事実である。
〈苦労はしないほうがいい〉
と、ある小さなお寺のご住職が言われた。
〈しかし、苦労は勝手に向うからやってくるもんでね〉
人に言えない苦労は、だれにでもあるものだ。
不語似無憂(カタラザレバウレイナキニニタリ)という言葉をむかし教わった。語らざれば 憂なきに似たり、と読む。
その前にある言葉が、はっきり思い出せないのだが、
君看双眼色(キミミヨソウガンノイロ) 不語似無憂(カタラザレバウレイナキニニタリ)、だったのではないか。〈君ミヨ 双眼ノ色〉というのは、その人の目を見てごらん、なんにも言わないので、まるで悲しみがないかのように見えますよね、といった意味だろう。
「頑張れ!」にしても「ガンバッて!」にしても、善意の励ましにはちがいない。その声に励まされて自分を超えるアスリートたちがいる。
しかし、なぜか私は大声で、
「頑張れ!」
とは叫べないのだ。心の中で繰り返し叫んではいるのだけれど。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》目下、歯の治療中です。何十年もほったらかしにしていたので、大修理が必要。機能は回復しても、滑舌がうまくいかないのが、悩みのタネ。自前の歯は大事にしましょう。