〔特集〕十六代樂吉左衞門の挑戦 継承から革新へ 千家十職の一家として400年以上、侘茶に適う茶碗を造り続けてきた樂家。令和元 (2019) 年に十六代を襲名した若き吉左衞門は、焼貫茶碗でつとに知られる先代とは別な向き合い方で樂家初代の長次郎と対峙、理想の茶碗造りに日々心血を注いでいます。メディアとして何十年かぶりに許された黒窯での撮影などを通して、『家庭画報』は吉左衞門の挑戦を見つめます。
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独白
継承までの葛藤 ── 見出した自分の想い
菊練りをして土の中の空気を抜き、まとめた後で手捏(てづく)ねによって茶碗をかたち造っていく吉左衞門さん。土を意識しながら立ち上げていると、時として土がいうことを聞いてくれないことも。そんなときは、土と対話しながらそのかたちを活かすようにするそうだ。
自分がこの家の跡継ぎとなる運命だ、という意識はごく幼い頃から漠然とありました。しかし、理解と自分の気持ちとは違うものです。昔であれば家業は否応なく継ぐものですが、今の時代は誰しも自由に選べます。「そういう家に生まれた」から茶碗を造るのか、中学、高校の頃は葛藤していました。友達からの悪気のない「お前は進路が決まっていて楽でええな」という言葉に傷ついたりしたことも。
ですが、大学受験を迎えると少しずつ方向性というか選択を迫られる中で、家業と向き合わざるを得なくなる。大学を卒業する頃になると幼き頃より意識してきた家業と自分の心の有り様にすっと光が……。
樂家には千家の職方という側面がありますが、一方で作家としての顔も強い。作家は誰かにいわれて造るようなものではありません。やはり、意志の強さや覚悟の強さがないと歴代に並ぶ茶碗は生み出せないのです。
先代として家業と対峙してきた父は安易に継げ、とはいわない。歴代がそうであったように、どう作品と向き合っていくか自分自身で考えなければならない。自分の中で腹落ちしていないと、継ぐということを到底いえないのです。父の背中を見ていたから、なおさらでした。
父はストイックで、厳しかったし、その姿勢を見て「自分もそうありたいな」とも思いました。葛藤し煩悶し自分と対峙する中で、ふっと気づいたことがあります。
それは幼少の頃より「樂家の窯のあり方、炎のあり方が好きだ」ということです。作陶しているときは独りですが、窯のときには大勢の人がいて一碗に対する情熱をのせて火に託し、茶碗が生み出される。余計な思考を削ぎ、裸の自分の心に気づけた瞬間「茶碗を造る」という覚悟が、気持ちがストンと自分の中で落ちたのです。
悩み抜いた土台の上に、今の私はあります。悩んだからこそ揺るぎない軸を持つことができたのです。