〔特集〕新紙幣肖像の偉人 北里柴三郎の遺産(中編) 新しい千円札の肖像画として一躍話題の的となった北里柴三郎ですが、何をなし、どのような人だったのかご存じでしょうか? 本企画では、ひ孫にあたる北里英郎さんと、「北里柴三郎記念博物館」の母体である「北里柴三郎記念室」を創設した大村 智さんに特別インタビュー。北里柴三郎の知られざる素顔と今こそ生かしたい教えに迫ります。
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日本人ならこれだけは知っておきたい
近代医学の父、北里柴三郎の偉業
阿蘇の麓の山々に囲まれた地に住む少年が険しい峠道を越え、3日間も歩いて熊本医学校へ向かい、その後は東京、遂にはドイツで寝食を忘れて研究に没頭し、医学史に残る世紀の発見をします。日本人なら知っておくべき偉業について、北里柴三郎記念博物館の医学博士・森 孝之さんに聞きました。
北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう)1853(嘉永6)~1931(昭和6)年。細菌学者。肥後(熊本県)に生まれる。東京大学医学部卒業後、内務省衛生局に入局、1886(明治19)年、ドイツに留学しローベルト・コッホに師事。1889(明治22)年、破傷風菌の純粋培養に成功。翌年血清療法を確立しその名を世界に轟かせる。1892(明治25)年、帰国して伝染病研究所を設立。翌年、日本最初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を設立。1894(明治27)年、香港で蔓延したペストの調査のため現地に赴きペスト菌を発見。その後、政府が伝染病研究所を内務省から文部省に移管するに際し所長を辞任。1914(大正3)年、私立北里研究所を設立。北島多一、志賀 潔、野口英世、秦 佐八郎ら優秀な門下生を多く輩出した。
北里の人生を決定づけた2人の恩師と最大の恩人
北里を語るにあたって外せない恩人の一人は熊本の医学校で北里を指導したオランダ海軍軍医、C・G・マンスフェルト先生です。その優秀さを目に留めて助教として講義の通訳をさせますが医師になる気はないと公言する北里に、彼は顕微鏡を覗かせます。肉眼で見えない未知の世界に魅了された北里に、東京で医学の勉強を続け、ヨーロッパへ留学するようすすめました。医学への道はここから始まりました。
もう一人の恩師はドイツで師事したローベルト・コッホ博士です。彼はコレラ菌発見などの業績により病原微生物学の父として医学界の最高峰にありました。コレラの研究を通じて深い信頼関係を築いた北里は寝食を忘れて研究に取り組み、遂に4年目にして「破傷風菌の純粋培養」に成功するのです。
嫌気性菌培養装置を前に破傷風の血清療法確立を記念した一枚。シャーレを密封する際、酸素が残っていると爆発した。その爆発が「ドンネル」(雷)という異名の所以とも。(北里柴三郎記念博物館所蔵)
3人目は福澤諭吉です。「世界のキタサト」とその名を轟かせ、欧米からの招聘をいくつも断って帰国した北里ですが、華々しい功績とは裏腹に不遇をかこつ中、福澤は「学者を助けるのは私の道楽だ」と土地を無償で提供し、実業家に協力を仰いで、日本初の私立の伝染病研究所が誕生します。追って創設した結核専門病院「土筆(つくし)ヶ岡養生園」には経理にたけた田端重晟(しげあき)を紹介。北里が研究に専心できる環境づくりを徹底的に支援したのでした。
血清療法は伝染病の治療へ人類が踏み出した世紀の第一歩
コッホが命じた破傷風菌研究での課題は菌の存在はわかりながらも異物を排除し、目的の病原菌だけを増殖させることができないという点にありました。北里はその菌が酸素を嫌うのではと推測。実験器具「嫌気性菌培養装置」を自作して「亀の子」と呼ばれる独特な形のシャーレで破傷風菌だけの培養に成功します。
北里が考案の嫌気性菌培養装置の一部。無酸素の状態を作り出すため試行錯誤の末に誕生したのが「亀の子シャーレ」。破傷風菌の純粋培養の成功に導いた。(博物館 明治村所蔵)
次いで動物に投与し破傷風を発症させることに成功。それのみか、この菌が特異な毒素を産生すること、さらにこの毒素を接種した動物の体内で作られた「抗毒素」が毒素を中和することまで立て続けに解明します。これを用いるのが「血清療法」で北里は抗毒素が治療に使えることを、人類で初めて証明した人なのです。
第7回万国衛生および人口統計会議(ロンドン、明治24年)の細菌学部門の出席者。中列右から4人目が北里。免疫学という新たな学問の扉を開き、最高峰の学者と肩を並べた。(北里柴三郎記念博物館所蔵)