日本男児にして心優しい愛すべき雷おやじ
私が北里先生のことをより深く研究するようになったのは、1984年に北里研究所の副所長に就任して以来です。研究所を立て直すにあたり、そもそも北里先生はどんな考えをお持ちだったのかを知りたいと思ったからです。北里先生は子どもの頃から四書五経を素読するなど、儒教思想を強く受けているため、曲がったことが嫌いな日本男児そのもので、堂々としています。
その半面、非常に優しい。晩年、静岡県の伊東に別荘を構え、その敷地に「千人風呂」と呼ばれた大きな温泉プールをつくり、一般公開していました。先生はブダペストで、温泉療法のための大きな浴場に市民が大勢集まるのを見たそうです。きっと負けず嫌いな性格だから、「よーし、ブダペストより大きいものをつくってやるぞ」と思われたに違いありません。
北里先生は短気ですぐ雷を落とすので、ドイツ語で雷を意味する「ドンネル」というあだ名がついたといわれていますが、ドイツで破傷風菌の純粋培養のための実験をしていたとき、ドカンドカンと何度も爆発を起こしたので、そこからドンネルと呼ばれるようになったという説もあります。私はそちらの説を支持したいし、きっと愛情溢れる雷おやじだったのだと思います。
私は北里先生について学ぶ一方で、遺品室にしまい込まれていた先生や門下生の資料を整理し、展示・顕彰する場を設けようと提案しました。多くの関係者のご協力のおかげで、1997年に「北里柴三郎記念室」として一般公開を始め、さらに2017年には展示を充実させた「北里柴三郎記念館」(現・北里柴三郎記念博物館)が新築され、私の長年の夢がかなったのです。
北里柴三郎記念博物館の館内にて、北里が愛用したカール・ツァイスの顕微鏡に見入る大村さん。
自然豊かな環境がサイエンティストを育てる
こうして、私は北里先生のことを調べていくうちに、すっかりその人柄や哲学に惚れ込んでしまい、かけがえのない人生の師として尊敬するようになりました。何か難局に直面するたびに、「こういうとき、北里先生ならどうするだろう」と考えるようにしています。
偉大な北里先生には遠く及びませんが、実学を重んじ、研究と経営を両立させた点など、自分と似かよっていると感じる部分もあります。私は明治生まれの祖母の影響を強く受けたせいで古風な面があり、その祖母と先生はほぼ同年代なので、もしかしたら性格も多少似ているのかもしれません。
先生は熊本県小国の庄屋の家の生まれ、私も山梨県の農家の出で、自然豊かな地方で生まれ育った点も共通しています。実は日本人のノーベル賞受賞者の中に、東京で生まれ育った人はほとんどいません。わが子を、将来ノーベル賞を取るような科学者にしたかったら、手つかずの自然に囲まれた環境に放り出すことをすすめます。
私自身も、ふわっとアイディアが浮かんだことを不思議に思い、「どこからこんな発想が生まれたんだろう」と遡っていくと、たいてい山の中で農業を手伝っていた頃の体験と結びついています。ほかのみんながのほほんとしていて気づかないことに気づく、それがサイエンスの始まりです。きっと北里先生もあの小国の自然の中で育ったからこそ、世界のKITASATOになり得たのではないでしょうか。