左から・『通勤電車でよむ詩集』NHK出版/『幼年 水の町』思潮社/『コルカタ』思潮社/『野笑』澪標――2009年に刊行し、萩原朔太郎賞を受賞した『コルカタ』は、2週間のコルカタ滞在から生まれた詩集です。旅の模様はテレビ番組として放映され、旅から戻って1か月間、紀伊国屋書店渋谷店の店頭に、毎朝、一篇ずつ、新しい詩が発表、展示されました。その日の朝、書いた詩を書店に持っていく。即興に見えますが、実は書かない間にも準備はなされていて、書き始めてからは短かったというだけでした。見たこと、経験したことをすぐに詩に書くことはできなくて、単語帳のようにひとこと“水売り職人”とメモしておいたりといったことがありました。あと、絵に描いておく、スケッチすることも、詩を書くうえでなかなかよい準備運動になるんです。
まんなかに 強い眼光を放つ男の子がいるいくつなの?/学校には行かないの?/家族と離れてさびしいことはない?
苦しいことは?/楽しいことはなに?/病気のときはどうするの?/食事は誰
が?/洗濯は自分で?すべて飲み込むべき ブシツケな質問をする
すると 誰もが 彼には答えさせない
(中略)
彼らが
守らなければならない 固い秘密
それをやすやすと
明け渡すわけにはいかないのだ
(『コルカタ』 「出稼ぎ宿」より)――番組のなかで、小池さんが水売り職人の部屋を訪れていますが、そのときのことを書いた詩「出稼ぎ宿」を読んだとき、状況を一瞬で掴んでしまう詩人の眼力に圧倒されました。目の前の一瞬を生け捕りにしたい、ことばに閉じ込めたいという一心で書いているわけですけど、でも、詩ってやっぱり書き始めたら、もう、おしまいで、1行目が出てきたら、もう終わっているようなところもあって。書くことは、書く以前に何をどう見て、掴むかにかかっていて、だから生きることを疎かにできないと思います。須賀敦子さんがエッセイで書かれていた、幼馴染のことばですが、生きるって本当に「只事じゃない」んですよね。生き続けているから、どんな一瞬も消えてしまうけれど、書く人間は、どこかで踏みとどまり、見るべきことを見て、掴むべきことを掴んでいく。だけどそれを、大事(おおごと)とは思いません。楽しいし、おもしろいからやっているんです。
――スケッチすることは、書くためのよい準備運動だとおっしゃいましたが、小池さんは詩集『野笑』などで、魅力的な挿画を描かれていますよね。詩を書くことも、絵も、音楽の表現も、伸びた枝葉は違っても根っこはひとつ。案外、みんなやらないだけで、誰でもできることだと私は思っているし、たとえば記憶を頼りに絵を描くなんてことを、このあいだも、学生といっしょにやってみると、発見があるんです。書くことの本質にダイレクトにつながっていて。バナナをバナナらしく描くためには、どうすればいいと思います? 汚れや傷み、それから、木からもぎ取られた部分が大事なバナナらしさだと思います。傷みも、ぎとられた部分も、木になっていたバナナが私たちのもとへ来るまでの時間の流れを表している。それを想像することで詩も書けるんです。事物が持っている時間をじわじわと手繰り寄せ、事物の旅路を想像して、構築する。書(描)き表すとはそういうことで、それはすごくおもしろいことです。
代々木にて 小池昌代/Masayo Koike
詩人・作家
1959年東京都生まれ。88年詩集『水の町から歩きだして』を刊行。97年『永遠に来ないバス』で現代詩花椿賞を、99年『もっとも官能的な部屋』で高見順賞受賞。講談社エッセイ賞を受賞した『屋上への誘惑』や、泉鏡花賞を受賞した『たまもの』など、エッセイ、小説、書評集など著書多数。
取材・構成・文/塚田恭子 撮影/大河内 禎 撮影協力/花カフェ dance