左から、『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(小学館文庫)、『野良猫を尊敬した日』(講談社)『ぼくの短歌ノート』(講談社)、『短歌と俳句の五十番勝負』(新潮社)、『水中翼船炎上中』(講談社)。――穂村さんは、世界が自分の目にどう映っているかを、デフォルメや虚構化を交えつつ書いているのだと、エッセイからはそんな印象を受けていましたが、近刊の『短歌と俳句の五十番勝負』で現実を“異化”するということばを読んで、表現の核はそこにあるのかと思いました。そうですね。歌集に“それぞれの夜の終わりにセロファンを肛門に貼る少年少女”っていう歌があるんだけど、あれはひとことでいえば、蟯虫検査なんだよね。朝、お尻に変なセロファンを貼って、封印して、学校に提出する非常に奇妙な儀式で。それを蟯虫検査ということばを使わずに表すと、文脈からその行為が切り離されて、奇怪な儀式に見えてくる。それが異化ということです。
――この歌は「チャイムが違うような気がして」という章の冒頭の歌です。最初に並べ方の話が出ましたが、各章の最初と最後の歌は、短歌を知らない者でも、なるほどと思うところがありました。たとえばこの国に生まれ育つと、いろいろなシーンで“富士山が見えます”というフレーズに出会う。旅先とか不動産屋さんとかに行くと、聞いてもいないのに“晴れていれば、ここから富士山が見えるんです”って、日本人はいわずにいられないみたいで。子どもの頃はそういうものだと思っているから、変だとも思わないけれど、これも呪文といえば呪文のような、奇妙な話ですよね。
お天気の日は富士山がみえますとなんどもなんどもきいたそらみみ「富士山じゃない?」とは口に出しませんちがっていたら恥ずかしいから灼けているプールサイドにぴゅるるるるあれは目玉をあらう噴水 去年、学校で座高の計測をやめたというニュースが報道されたとき、その理由が、意味がないから、というもので、だったらもっと早く気づけよ、っていうか(笑)。子どもの頃は大人のやることは全部意味があってちゃんとしているのかと思っていたけど、なんか意外と適当なんだなって感じで。
――多くの人が、そういうものだとそのまま受け流すことを、スルーせず見るところに、歌人の資質を感じます。韻文を書く人はそうだけれど、あと、お笑いの人の感覚にも、すごく近いものを感じます。彼らは人が、社会的に納得していることを一度ばらして、その意味を問うということをしていて、あれも異化ですよね。お笑いのかたちを取っていると、みんな恐怖心を覚えずに喜ぶのに、詩歌というかたちを取ると、ハードルが上がってしまう。昔から、それが残念だと思っています。
――歌は短いけれど、読んでいると、その背後にある凝縮された感情が迫って来るところがあって……。はい。でも、そういういいかたって、心して読めといわれているみたいで怖いじゃない(笑)。背後に時間があるのは本当のことだけれど、それなら、この机でも何でも、背後に時間があるのは一緒でしょう。読者が感じる恐怖みたいなものを取り去れないかと思うけど、やっぱりみんな散文のロジックに慣れていて、ひと目でわからなければいけないという強迫観念が強くある。韻文って、基本的に再読、音読、暗誦するもので、散文的なセオリーとは違う世界なんです。僕の親の世代までは、日常生活やドラマのなかに“ふるさとは遠きにありて思ふもの(室生犀星)”とか“太郎を眠らせ太郎の屋根に雪ふりつむ(三好達治)”といった韻文的な慣用句があったけれど、そういうものが今はどんどん減っている。
西荻窪にて 穂村 弘/Hiroshi Homura
歌人
1962年北海道生まれ。歌人。90年、歌集『シンジケート』でデビュー。評論、エッセイ、絵本、翻訳と幅広い分野で執筆活動を行う。2008年短歌評論集『短歌の友人』で伊藤 整文学賞を、連作「楽しい一日」で短歌研究賞を、2017年『鳥肌が』で講談社エッセイ賞を受賞。近著に書評集『これから泳ぎに行きませんか』など著書多数。
取材・構成・文/塚田恭子 撮影/大河内 禎 撮影協力/Re:gendo