山紫水明處の名の由来
東三本木通にある入り口から路地を進むと、扉があり、その先の庭の中に山紫水明處が建っています。
66坪余りの敷地に建つ山紫水明處は4畳半の主室と2畳の控え間、小さな板の間の構成。鴨川に面した障子を開けると美しい山並みや水面が眺められます。風が通るようにと、四方に出入り口や小さな戸、窓などを設けた開放的な設計が印象的です。
庭の中央(写真手前)には、掘り下げられた降り井と呼ばれる井戸があります。建物の後ろに柵と垣根があり、その向こうは鴨川の河原です。山紫水明の名の由来
かつて建物からは鴨川、大文字、比叡山、聖護院の森などがひととおり見渡せたといいます。ご存じのとおり、山紫水明とは山並みや清流など自然が美しい様子を指す言葉。賴山陽は「関白我也」と書き、風景を独占できたことを喜んでいたそうです。
「東山三十六峰の眺めもひとしおで、鴨川千鳥の啼き声も、京の情緒を満たしていたに違いない。この地を、山陽がどれだけ好んでいたかということが、その名の付け方でもうかがえる」(『静かな京』)
残念ながら対岸にビルが建つなどして、室内から見える風景はまったく昔どおりとはいきません。けれど、大村しげさんのこの一文だけで、山紫水明處からの眺めがいかに美しかったか想像できるでしょう。
山紫水明處の主室からの眺め。昭和の初めに水害対策として鴨川の改修工事が行われました。当時は河原がなく、建物は鴨川と並行に流れる分流に隣接。現在、分流は暗渠(地下水路)になっています。写真は賴山陽旧跡保存会所蔵。 幕末に賑わっていた京都・三本木
ここで豆知識を紹介しましょう。山紫水明處がある場所を、(東)三本木といいます。京都好きの方でも三本木と聞いて場所を、すぐにわかる方は少ないのではないでしょうか。三本木とは河原町丸太町の北西付近のエリアです。
「この三本木は、いまは、色香とはおよそ縁のない、むしろ職人街のようなたたずまいになっているけれど、幕末のころは、お公家さんやら勤皇のお侍が通わはったくるわやったという」(『静かな京』)と、大村しげさんはかつての三本木の様子を紹介しました。
記述では、「有名すぎて書くのも気がひける」(同)としながら、三本木の芸者であった幾松が、のちの桂小五郎(木戸孝允)の妻・松子である逸話を添えています。
山紫水明處を西側から見たところ。建物は賴山陽の独自の好みを反映していて、東西南北に風が通り抜ける開放的な作りなど特徴がたくさんあります。190年間、鴨川の流れとともに
賴山陽の生きた時代、さらには大村しげさんが紹介した約40年前と比べても、周辺の風景は随分と変わってしまいました。
「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは(略)」
彼女は鴨川について、『方丈記』の一文を引用しながら「口ずさんで、そのとおりやな、と、神妙になる」(『静かな京』)と書いています。
鴨川の清流しかり、京都の風景や人も時代とともに変化してきたけれど、山紫水明處が、190年間も昔のままに保たれているのは、なんと嬉しいことでしょうか。
もし、丸太町橋を通ることがあれば、今も変わらずに建つ、山紫水明處の姿をあなたも見つけられるでしょう。また、周囲の風景を改めて眺めれば、賴山陽が山紫水明處と命名した心境がわかるかもしれません。
Information
賴山陽書斎山紫水明處 (らいさんようしょさいさんしすいめいしょ)
京都府京都市上京区東三本木通丸太町上る南町
- 見学は事前に予約・許可が必要です。12月中旬~3月、8月は見学を受け付けていません。また、2018年度の申し込み受け付けは終了しています。見学希望の方は2019年3月以降に、氏名・連絡先・希望日時・人数(2名以上)を書いて往復はがきにてご予約ください(希望日の2週間以上前に申し込みが必要)。見学料は1名700円。 ●お問い合わせ先 賴山陽旧跡保存会 〒605-0063京都府京都市東山区新門前松原町289
川田剛史/Tsuyoshi Kawata
フリーライター
京都生まれ、京都育ち。ファッション誌編集部勤務を経てフリーライターとなり、主にファッション、ライフスタイル分野で執筆を行う。近年は自身の故郷の文化、習慣を調べるなか、大村しげさんの記述にある名店・名所の現状調査、当時の関係者への聞き取りを始める。2年超の調査を経て、2018年2月に大村しげさんの功績の再評価を目的にしたwebサイトをスタートした。
http://oomurashige.com/ 取材・文/川田剛史 撮影/中村光明(トライアウト)