伝説の歌番組『夜のヒットスタジオ』の名司会者・芳村真理さんと、トップメロディメーカーの都倉俊一さん。70年代のスターやアイドルを生み育ててきた二人が、今だから話せる裏話や、これからのエンターテインメントへの思いを語ってくれました。
芳村さん・ジャケット71万円 ファーストール27万円 キュロット19万8000円 イヤリング13万5000円 靴9万4000円/すべてジョルジオ アルマーニ(ジョルジオ アルマーニ ジャパン)右/メディアパーソナリティー 芳村真理さん
左/作曲家・プロデューサー 都倉俊一さん──歌番組が花盛りだった70年代、芳村さんは『夜のヒットスタジオ』の司会者として、都倉さんは『スター誕生!』の審査員として番組を支えていました。
芳村 70年代は音楽が大きく変わったときでしたね。都倉さんが山本リンダに作った「どうにもとまらない」は衝撃的でした。
テレビもフジの『夜のヒットスタジオ』、日本テレビの『スター誕生!』、TBSの『ザ・ベストテン』、NHKの『レッツゴーヤング』、各局に大きな音楽番組があって。
都倉 スタ誕で歌手が生まれ、ヒットスタジオに出してもらうことでスターとして認められる、そういう流れがありましたね。出演した翌日はレコードの売り上げがうんと上がったものです。
芳村 都倉さんは売れっ子の曲をたくさん作ってらしたから、すごくお忙しかったでしょう?
都倉 僕は一時期最高で26人のアーティストを抱えていたんですが、当時、ピンク・レディーのような売れっ子はシングルを3か月に1枚、アルバムを年に2枚のペースで出していたんですね。そのほかにコマーシャルソングなどもあり、寝る時間がなかったです。
芳村 26人も! 全盛期のピンク・レディーは本当に忙しかったわよね。ヒットスタジオに出演するときも、ギリギリに飛び込んできてすぐ本番、でした。
子どもたちがみんな歌と振り付けをまねしていたわよね。あんなに次々曲を作るのは大変だったでしょう?
都倉 このままだと死ぬと思いましたね(笑)。でも、誰かを引き受けて、誰かを断るということはできないわけです。日本人的な発想だけど、全部やるか、全部やめるかしかない。
それで僕はスター誕生をやめたときに全部やめて、ロサンゼルスに拠点を移したんです。向こうで新しく始めたミュージカルの制作は、僕のライフワークになっています。