――どの篇も、作品からの引用がありますが、これは最初から考えていらしたのでしょうか。引用は、作品との対話です。傍らにいた人の声なんです。本の話をするなら、それを出したい。幸い、新聞連載としては分量があったので、ある程度の引用が赦(ゆる)されました。作中人物を思い出すのと同じで、僕にとっては、本のなかのことばも、見開きの右頁にあるか左頁にあるか、天地のどちらにあったのか、視覚的なイメージとして浮かんでくるものなんです。連載時にはカギ括弧でくくっていましたが、単行本では前後に余白をつくって、引用であることを明示しました。
――読んでいるなかで、戦争が作家や作品に落とした影を感じるときがあって、ちょっと立ち止まることもありました。現代の日本の姿が、無意識に、あるいは意識的にそういうものを呼び覚ましたのかもしれません。戦争だけでなく、さまざまな差別に対する静かな抵抗を、傍らにいた人たちに託したとも言えるでしょう。たとえば、川端康成と北條民雄の関係などは、よい例です。当時の状況を考えると、ハンセン病の病院が差出元の、未知の人間から来た手紙を受け取って、あたりまえのように応答し、新しい才能を励ましつづけた川端康成のふるまいは、ことば以上の重みがあります。川端は文芸批評家として、若い人を褒めるのがとても上手な人でしたが、北條民雄との往復書簡においては、ひとりの忘れ得ぬ登場人物になっている。触れ難いものに触れる力を持っていた人だということがわかります。これは作品の読み方にも影響を与えうると思いますね。人に会うというのは、そういうことなのです。
北條民雄『小説随筆書簡集』(「いのちの初夜」、川端康成との書簡などを収録)/講談社文芸文庫――もうひとつ、印象に残ったのが、「私はもう無理はしない」という文章です。いろいろな意味が込められているのですが、ひとつには、読んでいるときの気持に正直であろう、ということです。もちろん、事実関係が間違っていたら訂正はしますが、そのとき感じたことを信じて書くという、ある意味ではあたりまえの姿勢ですね。批評や研究の領域では、作家と主人公と引用されていることばを同列に扱うことはしません。しかし読書をしているあいだは、頭のなかで、作家と作中人物が、ことばとことばが対話をしているような妄想にとらわれてしまうことがあるんです(笑)。すべての要素が、自分にとっては等距離にある。そういう意味で、境界線を引いたり、定義を重ねたりするのはもうやめよう、と思ったんです。無理をしないというのは、そういうことです。
――全52篇、流れに導かれて読むことは、幸福な時間でした。ありがとうございます。僕が本屋さんだったら、ここに出てくるすべての本を並べて、フェアをやってみたいですね。扱った本を一堂に並べたことはないので、全体像を眺めてみたい。なぜこの順番で話が展開していったのか、何か気づくことも出てくるでしょう。ひとつながりになったとき、傍らにいた人たちがどんな顔をするか、確かめてみたいと思うんです。
堀江敏幸/Toshiyuki Horie
作家
1964年岐阜県生まれ。早稲田大学教授。『おぱらばん』(三島由紀夫賞)、『熊の敷石』(芥川龍之介賞)、『雪沼とその周辺』(木山捷平文学賞、谷崎潤一郎賞)、『河岸忘日抄』(読売文学賞小説賞)、『その姿の消し方』(野間文芸賞)、ロベール・ドアノーの『不完全なレンズで 回想と肖像』、マルグリット・ユルスナール『なにが? 永遠が 世界の迷路Ⅲ』など著書訳書多数。『仰向けの言葉』、『音の糸』など、美術や音楽についての作品集もある。また、2018年に生誕100年を迎えた詩人、美術批評家、宇佐見英治の作品をまとめた『言葉の木蔭 詩から、詩へ』では編集を手がけている。