本物と評された半兵衛麸の味わい
その後、11代当主は、大村しげさんが祇園の仕出し屋の娘であったことを知り、彼女の言葉や知識に納得したそうです。恐る恐る話を進めるなか、彼女の言った次の言葉はいまも当主の胸に深く刻まれています。
「今回、麸料理を食べさせてもらいました。半兵衛さんの麸は(普通の麸とは)全然違う。戦前の作り方をそのまま生かしておられますね。この味を大事にしてくださいよ。本物の麸ですから日本の文化として残してくださいね」
本店に隣接する洋館では麸やゆばが販売されています。機械のない江戸時代には麸づくりはもちろん手作業です。11代当主は先代(10代)からの教えを守り、手作りを継承。その点も大村しげさんは見抜いていました。
「(いまの)麸そのものには味がない。けれど半兵衛麸は甘い」
この大村さんの一言は11代当主に自信とやりがいを与えたのです。また、先代の教えが正しかったことの裏付けともなりました。
お昼の料理の一品、やき麸とおゆばの煮いたん。骨董歴50年の当主の目利きが光る器も見どころです。「なんせ古いおうちやから、出されるうつわの立派なこと」(『美味しいもんばなし』)と大村さんも書いています。11代当主によると口に入ればなんでもよかった戦時中は、何を作っても売れたため、素材や製法を簡素化した麸が当たり前になっていました。半兵衛麸では、そんな時代にも本物を大事に、との思いから、昔ながらの作り方を守っていたそうです。
バリ島への旅行で体験した忘れられぬ味
大村しげさんは、1980年代から、年に一度、インドネシアのバリ島へ旅行をしていました。11代当主も誘われて、一緒にバリ島へ旅をしたころがあるとのこと。大村しげさんの誘いをきっかけにバリ島へ渡った11代当主は、その後たびたび家族でバリ島を訪れるほど魅了されたといいます。
当時の忘れられない体験は食べ物にまつわる思い出でした。
「『私はバリ島に日本料理の原点を見いだした』と大村先生はおっしゃっていました。現地で是非食べてほしいとすすめられたのが卵。なぜかと尋ねると『バリ島の鶏は庭を走り回っていて、空を飛ぶ』とおっしゃいまして。これが本当にバタバタと飛んで木に登るんです(笑)」(当主)
バリ島の風景。街中を外れると、いまでも鶏が自由に歩き回っています。筆者撮影。「現地の鶏は放し飼いで餌を与えられておらず、そこかしこに置かれたお供えや、ミミズ、虫を食べていました。そんな鶏の生んだ卵の“にぬき(ゆで卵)”は香りが違う。あれほどの卵は日本では手に入らないでしょうね。海から持ってきた甘みのあるお塩をつけて食べました」(当主)。
このほかにも、小豆と米を炊く赤飯のルーツがインドネシアの儀礼で食べる赤米ではないか。現地の山の中にある聖地に日本の鳥居と同じ形をしたものがある、といった日本との結びつきを想起させる私見を大村しげさんは紹介したそうです。
変わらぬ本物の味を残してほしい
「素晴らしい方でした。今があるのは、『本物を残してください』との大村先生の一言があったからこそ。怖い一言ではありますが、いまも『この味を作ったら喜んでくださるかな』と思いを巡らしながら、商品を作り続けています」(当主)
330年続く名店の当主が、「ごまかしが利かない」と緊張した大村しげさんの味覚。そんな彼女が後世に残してほしいと願った麸の味は、いまも変わりません。
半兵衛麸本店の貫録ある雰囲気と、麸料理の味わい深さを知れば、「ほんまは人さんに教えとうない。そのくせ、言いふらしたい」(『美味しいもんばなし』)と書いた大村しげさんの心境を、みなさんも理解できるはずです。
Information
半兵衛麸本店
京都府京都市東山区問屋町通五条下る上人町433
川田剛史/Tsuyoshi Kawata
フリーライター
京都生まれ、京都育ち。ファッション誌編集部勤務を経てフリーライターとなり、主にファッション、ライフスタイル分野で執筆を行う。近年は自身の故郷の文化、習慣を調べるなか、大村しげさんの記述にある名店・名所の現状調査、当時の関係者への聞き取りを始める。2年超の調査を経て、2018年2月に大村しげさんの功績の再評価を目的にしたwebサイトをスタートした。
http://oomurashige.com/ 取材・文/川田剛史 撮影/中村光明(トライアウト)