随筆家 大村しげの記憶を辿って かつて、京都の「おばんざい」を全国に広めたお一人、随筆家の大村しげさんをご存じでしょうか。彼女が書き残した足跡を訪ねて、生粋の京女が認めた京都の名店や名品を紹介します。
記事一覧はこちら>> 京都を旅するにあたり、京都ならではの場所や味に出会うために、私たちはなにを拠り所とすればよいのでしょうか。京都の情報を多数書き残した、随筆家・大村しげさんの記憶は、まさに京都を深く知るための確かな道しるべ。今回も彼女にまつわる名店を辿ります。
大村しげ
1918年、京都の仕出し屋の娘として生まれる。1950年前後から文筆をはじめ、1964年に秋山十三子さん、平山千鶴さんとともに朝日新聞京都版にて京都の家庭料理や歳時記を紹介する連載「おばんざい」を開始。これをきっかけに、おばんざいが知れ渡り、大村しげさんも広く知られるようになる。以来、雑誌や著書で料理、歴史、工芸など、幅広く京都の文化について、独特の京ことばで書き残した。1990年代に車いす生活となったのを機にバリ島へ移住。1999年、バリ島で逝去。 撮影/土村清治軽さと歯ざわりの良さが魅力の唐板
京都には百年単位で続く名店・名品が多くあるのはご存じのとおりです。なかでも水田玉雲堂の「唐板」(からいた)は、約500年の歴史を誇る名菓として知られます。
大村しげさんは1978年(昭和53)に発行された『京のお菓子』(中央公論社)のなかで唐板を紹介しました。
御霊神社。水田玉雲堂はこちらの鳥居の目の前にあります。 唐板は、上御霊さんとして親しまれている御霊神社とゆかりの深いお菓子です。大村さんは京都のいくつかの有名な神社と、そのそばにある甘味を挙げながら、次のように書いています。「お宮さんへお参りをしたときには、必ず一服する茶店とか、おみやげのお菓子がある。唐板屋はんの水田玉雲堂も、代々上御霊神社の境内で茶店を出し、“唐板煎餅”をつくって売っていた」(『京のお菓子』)
唐板は小麦粉と上白糖、塩、卵を混ぜて薄くのばしたものを銅板の上で焼いて、短冊状に切り分けた煎餅。素朴な風味と独特の触感は、ほかでは味わえないものです。
「薄い。さくさくと歯ざわりが軽う、ほどけもようて、味も一級。飽きのこないおせんである」(『京のお菓子』)
箱入りの唐板は2袋(写真)1520円~(税込み)。ほかに、お徳用の袋入り700円(税込み)もあります。黒いパッケージは先代店主が始めたもの。始めたころはお菓子の箱に黒い紙を使うアイディアは珍しく、「非常に好評で、どこで作ったのかとの問い合わせも多かったんですよ」と店主の水田千栄子さん。 応仁の乱の後、再興された「唐板」
863年(貞観5)に疫病が流行った際、疫神を鎮めるために、御霊会が神泉苑で行われ、神前に供えられた煎餅が「唐板煎餅」と名付づけられました。その後も続いた御霊会は応仁の乱のために廃絶。お菓子の説明書によると、水田玉雲堂の先祖は古書を頼りに、途絶えていた唐板の製法を会得し、疫病除けの煎餅として、応仁の乱の後に再興したのです。かつては御霊神社の境内に茶店を構えていましたが、第2次大戦時に住宅兼店舗の明かりがもとで神社に夜間爆撃の被害が及んではいけないと、鳥居の向かい側に移転しました。
かつて御霊神社の境内にあった頃の水田玉雲堂の様子。この写真は水田玉雲堂の店内で見ることができます。 現在の店舗は大正末期に建てられたもの。現在、唐板を焼くのは先代店主の奥さまである水田千栄子さんです。一昨年、50年以上、唐板を焼き続けていたご主人が病に倒れたため、しばらく休業して看病を続けました。その後、ご主人が亡くなり、その意思を継いだ水田さんが、2018年2月から営業を再開しました。
苦難を乗り越え、昨年、待望の再開
先代が亡くなった後、再開にこぎつけられたのは先代の技を間近で見ていた、千栄子さんだからこそ。従来はご主人が生地を作り、千栄子さんが焼く作業を担当していました。そのため先代と同様の生地を作れるようになるまでに苦労したといいます。
材料を混ぜて焼いて、切り分けたあと、裏返して軽く押さえてさらに焼く。素材や工程を吟味したお菓子だけに、いつもと違えば食べた人に変化はすぐにわかってしまいます。
「一気呵成に作らなくてはいけません。噛むとパリッとして、口の中でシュワっと溶ける触感が理想です」(千栄子さん)
一般的な京煎餅よりも水分が多く、焼くと水分が抜けようとしてお餅のように膨れます。白く見えるのは膨れた部分の名残。「膨れるほどにさっくり美味しくなります」(千栄子さん) 厳しかった先代の教え
千栄子さん曰く、ご主人は抜群の味覚の持ち主で、一度食べただけの料理を再現できるほどの舌と技術を持っていたそうです。それほどの名人をしても、唐板の品質を安定させるのは容易なことではありませんでした。
「主人はお塩の壺の位置も道具の置き場所も、決めたとおりになっていなくてはいけない人でした。『唐板づくりは気温・湿度に左右されるのだから、変わらないものだけは決まった場所になくてはいけない』と。変化しないものは動かさず、変化するものに気を使うのです。結婚当初に焼くのを手伝ったとき、うまく焼けなくて怒られました。『できない』との言葉を受け付けてくれないんです」(千栄子さん)
先代が亡くなった際は、存続も危ぶまれた唐板。その危機を救ったのは一念発起した水田さんの情熱にほかなりません。再開は地元紙でも報じられ、店頭には大きな反響が寄せられました。大村しげさんが「一級」と評した、味わいが継承されたのはうれしい限り。疫病除けのご利益もあるという唐板なら、京都のお土産としても喜ばれるに違いありません。
川田剛史/Tsuyoshi Kawata
フリーライター
京都生まれ、京都育ち。ファッション誌編集部勤務を経てフリーライターとなり、主にファッション、ライフスタイル分野で執筆を行う。近年は自身の故郷の文化、習慣を調べるなか、大村しげさんの記述にある名店・名所の現状調査、当時の関係者への聞き取りを始める。2年超の調査を経て、2018年2月に大村しげさんの功績の再評価を目的にしたwebサイトをスタートした。
http://oomurashige.com/ 取材・文/川田剛史 撮影/舟田知史(トライアウト)