●九螺ささらさんの再読の書形而上的世界を愛し、ことばを信じていることが、その話しぶりからも、ひしひしと伝わってくるように、書くことによって、生きることと折り合いをつけている――そんな九螺さんに、選んでいただいた再読の書の共通点を尋ねると、返ってきたのは“半端ない”ということば。“リア充なんかなくて、ひとりで恐ろしい状況、きわどい場所に立たなくてはならなくなってしまった人。詩人はつねに、そういう精神状態で書くしかないのだと思います”。
●『春琴抄』/谷崎潤一郎(新潮社)私の世代だと、『春琴抄』といえば山口百恵・三浦友和のコンビの映画なのですが、その影響が抜けた辺りで、自分なりにこの作品を読むことができました。『春琴抄』は関係性のあり方を描いています。佐助は春琴のことを、人として好きなんですけど、彼女は火傷を負って醜くなった自分を見られたくない。その気持ちを察した佐助は、それならと、自分の目を刺してしまう。谷崎潤一郎は、その痛い部分を官能的に描いていますが、男女関係というよりも、そこまでやることで自分の愛を証明するというところに打たれました。
●『二十億光年の孤独』/谷川俊太郎(日本図書センター)まず、光年ということばに惹かれますよね。この詩集のなかの「かなしみ」という詩で、あの青い空の波の音が聞こえるあたりに/何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい という文を読んだとき、波の音は私たちが感知できるところにあるけれど、その向こうはわからない世界、というイメージが広がりました。この詩には授業で出合いましたが、地球人が確認できるのは波の音が聞こえるあたりまでなのかという印象と同時に、現代詩なら、その先の宇宙や存在を書くことができると思ったんです。ビックバンから始まって、無が有になる、その束の間に私たちは存在していて、“我思う、ゆえに我あり”でしかないけれど、それにしても、存在って不思議ですよねということを、私は書きたい。韻文は、存在の不思議を書くのに合っている表現形式だと思います。
●『山月記』/中島 敦(新潮社)中島 敦は漢学を修めた家の人で、漢文のリズムがしみついているからか、文章に一切、過不足がありません。『山月記』を読んで感じるのは、本当にいいたいことがある人の切迫感、説得力です。変身譚は世界中どこにでもありますが、李徴が虎になっていることを、全く異様ではなく受け入れることができる。李徴がいう“臆病な自尊心と尊大な羞恥心”など、それ以外にあり得ない表現で、なぜ虎になったかを自問自答する懊悩は、中島 敦自身の懊悩でもあったのでしょう。今、江守 徹さんの朗読CDを聞き続けているのですが、漢文調の文章は耳で聞くと、リズムのよさもよくわかります。虎になった李徴は自作の詩を披露し、袁傪(えんさん)は部下にその詩を書き留めさせるのですが、そのとき袁傪は、“たしかに一流のものだが、何かが微妙に足りない気がする”といいます。この期に及んでそう口にする厳しさは、ふたりが互いを信頼し合っているからこそで、そのことに感動しました。“己の珠に非ざることを惧れるが故に……”は、試したところで認められない、自分に才能がないことがわかってしまうのを惧れてやらないということで、程度の差こそあれ、この状況は誰にでも通じる話です。そんなふうに挑戦しないまま死んでしまうことは恐ろしいことで、この本を読んで、自分は絶対そうならないようにしようと思いました。
根岸にて 九螺ささら/Sasara Kura
歌人
神奈川県生まれ。青山学院大学卒業。2009年春より、独学で短歌をつくり始める。2010年、短歌研究新人賞次席。2018年6月に上梓した『神様の住所』(朝日出版社)で第28回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞(選考委員は大竹昭子さん)。歌集に『ゆめのほとり鳥』(書肆侃侃房)がある。現在、新潮社のデジタル文芸誌『yom yom』で『きえもの』を連載中。
取材・構成・文/塚田恭子 撮影/大河内 禎 撮影協力/そら塾