「ことばの世界」 ハードルが高い、入り口がつかめない……そんな印象を持たれがちな詩歌というジャンル。けれど、単純には割り切れない感情や思いをつかむ詩人、歌人のことばは、読者を遠くへと誘う力を秘めています。彼らは世界をどうとらえているのか。その作品と肉声を通じて、詩歌の魅力に迫ります。
バックナンバーを読む>>> 1977年に刊行した第一詩集『海まで』をはじめ、『凪』、『川から来た人』、そして2014年の藤村記念歴程賞と三好達治賞を受賞した『海へ』など、そのタイトルが示すように、海や水をモチーフのひとつとして、作品を発表してこられた詩人の高橋順子さん。
『連句のたのしみ』という著作を上梓し、連句の講座を持つなど、詩だけでなく、俳句や短歌にも精通している順子さんは、2015年に不慮の事故で急逝した、夫で私小説作家の車谷長吉さんと過ごした四半世紀を振り返った『夫・車谷長吉』のなかでも、新婚旅行先で、初めてふたりで連句を巻いたときのことを綴っている。
“この家は元アパートだったので、階段が3つあるんです”。路地裏の、奥の奥にある建物の大きさやその外観を眺めていると、そう教えてくれた家の玄関には、車谷さんが愛用されていたのだろう男ものの下駄が、今もそこにあるべきものとして置かれている。
毎朝、霊前で般若心経を唱えて、お線香を手向けているという順子さんは、姿は見えなくても、この家で車谷さんの気配とともに暮らしているのだろう。話の合間に、ぽつりぽつりとそのお名前が自然に挙がるのを聞いて、そんなことを思いながら、飾り気のない、落ち着いた声で話す、順子さんのことばに耳を傾けた。
階段を上っていると海が湧いてきたとうとう海が事務所の階段にしずかにたまってしまったのだひとあしひとあしまぼろしの潮から靴をひき抜くわたし自身を都会の真昼にした『海まで』 「海が湧いてきた」より 海という異界に憧れて海という異界の豊かな幸をいただいて(すさまじい破壊力をもつほどに豊かな)あまつさえ海という異界に生かされていると感じていた「わたしは海の一部だから」と むかし詩に書いた わたしのおめでたさ加減よわたしは海のしっぽではじかれた『海へ』 「津波はまっすぐ来た」より ――高橋順子さんの作品といえば、やはり思い浮かぶのは海や水です。生まれが千葉県海上郡飯岡町(現・旭市)で、私の家の先には海岸まで2~3軒あるだけ、家から海までの距離はたぶん20mくらいなのかな。飯岡に越してきた人のなかには、波の音が大雨みたいにすごいので、最初は眠れなかった、なんて話す人もいるようですが、海辺で生まれ育った私には、海鳴りは子守り唄みたいなもので。母親のお腹のなかって、あんな音がするのかしらね(笑)。ただ、その安心感も東日本大震災で津波が来て以降――私自身は実際、津波に遭ったわけではありませんが、両親や弟夫婦は大変な目に遭っているので――変わりましたね。津波の水はヘドロを巻き込んでいるので黒くて重くなっていて、それで被害が大きくなるのだそうです。
――飯岡は漁師町という印象があるのですが、幼少期、周囲は文学や空想の世界よりも、外遊びが好きな人が多かったのではないでしょうか。実態は半農半漁だけれど、漁師町ですね。飯岡はイワシ漁で栄えましたが、江戸時代に津波による海難事故で、漁師が70人余り亡くなっています。そんな大事故があったのに、地元では津波のことが全然知られていなかったし、私が子どもの頃は、海岸が開けているから、この浜には津波が来ないといわれていたんです。江戸時代、漁師は「目に一丁字なし」、読み書きは関係ないといわれていましたが、人々が文字に親しむ環境がなかったことから悲劇が起きたのでしょう。震災後に、町は、旭いいおか文芸賞「海へ」という文芸賞を立ち上げました。全国でいろいろな町おこしがありますけど、この文芸賞は、命を守るための文芸賞だと私は思っています。
――昔とは、だいぶ様変わりした感じでしょうか。私が子どもの頃は、大人が本を読む環境がなかったので、最初、賞を立ち上げると聞いたときはびっくりしました。2019年2月に3回目の授賞式が終わりましたが、応募作品は約1600点、回を重ねても、応募数が落ちていないんです。最終選考に残った人たちには、肉筆で原稿を書いてもらい、朗読もしてもらった上で、受賞作を選ぶのですが、朗読のために北海道から来た方もいました。原稿用紙には字だけでなく、絵を描いてもらっても構いません。子どもたちには勝てないな、と思うところもありますが、年配の方が飯岡弁で書かれた作品も、なかなか立派です。
右から時計回りで、『海へ』(書肆山田)、『高橋順子詩集』(思潮社)、『あさって歯医者さんに行こう』(DECO)。