「ことばの世界」 “作品は、まったく何もないところから生まれるものではなく、先行する文学作品の影響をさまざまなかたちで受けながら書かれるもの”とは、多くの書き手が口にすること。作家が立ち返る場所としての大切な本、繰り返し読んでしまう再読の書を挙げてもらいます。
バックナンバーを見る>>> エッセイのなかでもよく触れているように、連句は楽しいですよという順子さん。連句は見よう見真似で始めたそうで、五・七・五に慣れ親しんでいなかったから、最初は指を折って(数えないと)なかなかできなくて、と笑いながらそう口にする。詩人の吉原幸子さん、新藤凉子さんとの共著があるように、連句だけでなく、順子さんは連詩も多く発表している。普段は、集中と放心という両極の状態をギュッと引き寄せて、独りで詩をつくっているからなのか、“相手を受けてことばをつなぐことは、差し出した手を握ってもらえるという感触があって、嬉しいんです”と、連句や連詩の魅力をそんなふうにたとえる。
――連句や歌仙についての本を読むと、みなさん、とても楽しんでいる感じが伝わってくるのですが。連句は楽しいですよ。最初は見よう見真似で連句を始めて、連句のためにも基本を知らないといけないと思って、俳句を習いに行ったのですが、それで俳句と連句は違うんだとわかってきました。
――俳句と連句はどのように違うのでしょうか。俳句は二句一章で、どこかで切れていないといけなくて、楕円構造が必要です。楕円構造、目玉がふたつあると、世界が広くなる。でも、連句のなかの句は、そういう構造は必要なくて、ずぼっと行ってしまっていい(笑)。前の句と自分の句の、二句一連でつくったり読んだりしていけばよくて、そのほかストーリーは関係ないんです。もちろん規則はたくさんありますけど、基本は二句一連だから、切れがあるとしたら、一句と一句のあいだにある。俳句は一句のなかに切れがあるけれど、連句は句のなかにはあまり切れがない。だから連句は俳句より易しいですよと、私はいっています。
――車谷さんとおふたりで、早くから連句をなさっていましたよね。新婚旅行のときに、あの人が、連句の発句のような、わりと姿の大きな句をつくったので、これを発句にして歌仙を巻きたいと私がいったんですけど、向こうは何か挑まれた気がしたみたいで。それで一生懸命つくりましたよ。あんなに真剣にやったことは、お互いなかったんじゃないかな。
『夫・車谷長吉』(講談社)。――旅先や移動中に詩や句が浮かんだり、その芽を掴むことは多いのでしょうか。移動しているときに詩をつくることは結構ありますね。新藤凉子さんを誘って、車谷と3人で95日間、南太平洋を航海する船旅に出たときも、新藤さんとふたりで連詩をやって、船内で発表会をしました。アフリカの太鼓ジャンベで伴奏してもらって。ディジュリドゥというアボリジニの楽器を持っている人がいたので、その人にも舞台に加わってもらって、なかなか盛況でした。もうあと数日で、日本に戻るという頃に、最後に3人で連句をしようという話になって。連句は季節感をとても大事にするのですが、南半球を航海中は、季節が滅茶苦茶なので、連句をやる気にならないんです。ようやくやる気になって、でも、巻き終わらなかったので帰国後、ファクスでやりとりして巻き終えました。
――散文の仕事としては、星、水、月など「なまえ(名前)」シリーズがあります。雨、風、花、月のシリーズは写真もありましたけど、水と星についてはエッセイだけでつくりましょうと編集の方にいわれて。書きたいこと、書きやすいことから自由に書いて、あとで目次を組みました。由来や古今東西の話なども好きですが、こういうシリーズをずっと書いているのは、やっぱり私がことばを好きだからだと思うんです。連句も、ことばが好きでやっているのかな、と。
左から『星のなまえ』、『水のなまえ』(いずれも白水社)。――『水のなまえ』のなかでオノマトペについて、“詩人たちは市民権を得たオノマトペをずらし、心の耳で聞いた音を創り出す”と書かれていて、なるほどと思いました。金子光晴が女性の排尿の音を「しゃぼりしゃぼり」と記したのは衝撃的でしたね。このシリーズで、『恋の名前』を出したけど、あれは売れなかったの。カメラマンの人とも愛や恋の名前でやりたいと意見が一致したのだけれど、若い人は恋離れしているみたいですね。
――大学で教えているとき、学生は恋愛をテーマにした創作をしていませんでしたか。そういえば恋愛小説を書く人は少なかったですね。みんなの前で発表するのが恥ずかしい、ということもあるのかもしれないけれど。小説家志望の学生が書いたもので、これは、と思うものは車谷に読んでもらったりしていました。
3 茶色いセミの羽のようなのが背中についていてくれればいい背を向けなければならないときことばの代りに それをふるわせられるもの4 街が近づいてきてお近づきのしるしのように雨が降った雨に流されたのは 殉教者風の恋人でした『幸福な葉っぱ』 「木肌がすこしあたたかいとき」より 「偏屈と物好き」の組み合わせでありますからこのたび祝言を挙げたについて呆れられこそすれ羨まれることはないしかし一人者という境遇ゆえに親しくしてくれていた女や男から一歩身を退くことにはなりましたまさかと思っていた人たちの心づもりを裏切ることをしたのですそれが悪いことでしょうかとひらき直るつもりはありません悪いことだと思うからですいい気になってと思うからです 『時の雨』 「あなたなんかと」より 「二人ともものを書くの?それはいけません家の中に虎が二ひきいるようなものだって言われたよ」婚約中 男がおかしそうに女に言ったことがあったっけいつかその言葉を思い出すことがあるかもしれないと女は思った『時の雨』 「虎の家」より ――結婚以前、車谷さんは、順子さんが雑誌に発表した詩が単行本に収録される際、一連まるごとなくなっているのを見て、手紙を送ってきたそうですね。「木肌が少しあたたかいとき」という詩のことですね。私が飛ばしたのは、雨に流されたのは/殉教者風の恋人でした というところが入っている4連でした。どうも車谷は、そこがいいと思っていたのに、詩集になったらなくなっていたと、手紙をくれたんです。後になって“何で落としたのか”と聞かれたので、殉教者風の恋人が誰か、詮索されるのが嫌だからと応えたの。でも、現代詩文庫では、戻しています。
――そういう話をうかがうと、詩のことばは、どこかの誰かに強く届くものなのだなと思います。そうですね。でも、〝車谷がいいというから、高橋順子のその詩を読んだけど、自分にはわからなかった〟と、ネットで書いた人がいて。その人には届かなかったわけです。
――詩集『時の雨』では、結婚や車谷さんの強迫神経症の発症など、個人的なことが描かれていますが、その感覚は読み手にも届きました。独りよがりではなくなった、ということですかね。それまでも、他の人にわからないことばは使っていないつもりでしたけど、独りよがりなところはあったのかもしれません。今、同人誌などで書かれている現代詩を読むと、ことばはすごく洗練されているけれど、心に響いてこない詩や、他人にはわからない詩が少なくない。でも、これが説明できてしまうと、また大した詩ではないのかもしれないですけど。
『海へびのぬけがら』(愛育社)。