●服部真里子さんの再読の書クリスチャンの両親のもと、幼児洗礼を受け、神や信仰が身近な問いとしてあったという服部さん。人間と神の関係、親子の関係、そして女性と社会システムの関係。自身と他者との関係を考える上で新たな視点や気づきをもたらし、服部さんにとって救いとなったという4冊の本とは。
●『蒼穹の昴』/浅田次郎(講談社)人は神を超えられる。『蒼穹の昴』は、それをテーマにした小説だと私は思っています。
小説では、どこかに隠されてしまった天命を司るダイヤモンド製の龍玉に代わって、人々の希望となるために、偽物の龍玉が硝子でつくられます。硝子はダイヤモンドではないけれど、人間の技でつくられた不完全なものが、神には救えなかった人間を救う、そのことに感動しました。
両親がクリスチャンで、私自身も幼児洗礼を受けた家庭に育ったのですが、そこで私が学んだのは、神とは決して私を赦さず、救わない存在だということでした。そんな当時の私にとって、『蒼穹の昴』は、まさに人間の技で神に救えない人間を救う、硝子の龍玉だったのです。もっとも今では、当時とはぜんぜん違った形で神をとらえ直して、クリスチャンのつもりでいます。
●『闇の守り人』/上橋菜穂子(新潮社)また親子の話になってしまいますが、11~12歳のとき、主人公のバルサに共感しながら『闇の守り人』を読みました。ただ、ひとつだけ納得できない場面があったんです。物語のクライマックスで、バルサは人生を捨ててまで自分の命を救い、育ててくれた養い親のジグロに、“わたしは、たすけてほしいなんていわなかった! あんたが勝手に、たすけたんだ!”と叫ぶんですね。
そこだけ、ちょっと胸に引っかかるというか、それはいっちゃいけないんじゃないのって思っていたんです。でも、バルサと同い年の31歳になって読み返してみたら、「ああ、バルサ、それは本当にそうだよ、いえてよかった」って思えたんですね。自分(バルサ)を思って育ててくれたジグロが自分を憎んでいたこと、自分のなかにもジグロを憎む気持ちがあること。
当時の私は親の保護下にいたから、自分のなかのあまりに生々しい感情を認められなかったのでしょう。『闇の守り人』は、守り人シリーズのなかでも傑出していると思います。
●『文壇アイドル論』(岩波書店)、『紅一点論』(ビレッジセンター出版局)/斎藤美奈子いずれも早稲田短歌会の女性の先輩が貸してくれた本で、この2冊を通じて私はフェミニズムに出合いました。当時の私は、痩せないと男の人に愛してもらえない、男の人に愛してもらえなければ生きていけないと思い込んだ結果、摂食障害に苦しんでいました。
でも、これらの本を読んだことで、私のなかで問いが変化したのです。“どうしたら私は男の人に愛してもらえるのか”から、“どうして私は男の人に愛されないと生きていけないと思うのか”へ、それから“どうして社会は私(たち)に、「女は男に愛されないと生きていけない」と思わせる仕組みになっているのか”へ、と。
『紅一点論』には、アニメなど主に子どもを対象としたコンテンツにおける女性キャラクターの描かれ方が書かれているのですが、そこには、かつてそうしたものに触れていたはずの私が、まるで気づきもしなかった視点が提示されていました。
女は美しくなければ、男に愛されなければ価値がないというのは、真実でも何でもなくて、単にこの社会が女に向かって発しているメッセージにすぎないと知ったことで、「私の摂食障害は、社会の定義づける女の価値(美しさ=痩せている)に、無理やり自分を押し込めようとした結果だ」と、自分の苦しみを言語化できるようになりました。
すると、なぜかそれだけで不思議と楽になり、摂食障害の症状も収まっていったんです。早稲田短歌会の歌会は、無記名で並んだ歌を批評するので、作者の性別をどうこういわれることはありません。参加者は男でも女でもなく、徹底してただの歌の作者です。私が女性である前に、ひとりの人間であることを、歌会を通じて教えてくれた早稲田短歌会のメンバーには、どれだけお礼をいってもいい足りないです。
代々木公園にて 服部真里子/Mariko Hattori
歌人
1987年神奈川県生まれ。2006年、早稲田大学短歌会に入会し、歌をつくり始める。同人誌「町」の結成と解散を経て、現在、未来短歌会に所属。2013年に歌壇賞受賞、第1歌集『行け広野へと』で、日本歌人クラブ新人賞と現代歌人協会賞を受賞。2018年、第2歌集『遠くの敵や硝子を』刊行。