《不確かな旅》2016 / 2019年
Courtesy : Blain|Southern, London/Berlin/New Yorkナビゲーター・文/堀本裕樹鮮烈な赤の放射だった。
その空間に足を踏み入れた瞬間、巨大な蜘蛛の巣のような縦横無尽の赤い糸の傘下に、己の肉体が絡め取られてしまうようで思わず立ち尽くした。
この《不確かな旅》というインスタレーションに出会ってすぐ、鑑賞者はその作品世界へと呑み込まれてゆく。
そうしてじわじわと自分の胸中にも赤の放射が伝染してゆき、塩田千春の海原を泳ぎ始めるのである。
まるで自らの、または赤の他人の巨大な毛細血管に取り囲まれ迷い込んだ心持ちにさせられてゆくのだ。映画『インナースペース』的な体内冒険の幕開けのようでもある。
視覚的にはフレームだけの舟と張り巡らされた真っ赤な糸しかないように見える《不確かな旅》には、見えない肉体が確かに在ると感じた。
魂がいくつも絡まっていると言い換えてもいい。そう私に強く思わせたのは、妖美でいて魔術的な赤い糸の張りつめ方であった。と同時に、そこには強烈な希求が宿っているようにも見えた。
不確かなものを必死に繫ぎ止めようとする交錯した祈りと魂の響きが赤い糸に絶えず電流のように流れている。
触れれば古楽器の弦のように鳴るやも知れぬ赤い糸の錯綜を観る者らは、心の奥おく処かでそれぞれ違った音色を奏でることだろう。
その音色に小舟が揺れ惑いながら無意識的にどこかへ舵を取ろうとするだろう。
私は観ているうちに自ずと誘われるように、赤い糸がしんしんと妙音を紡ぎ出すなか、何艘かあるその舟の1つに己の心を乗せてみようとしていることに気づいた。
それに逆らわずに心を静かに乗せてみると、不思議に解き放たれたような禅ぜん定じょうを得てしばらくのあいだたゆたうに任せたのである。
これは今までにない経験であった。またどこかしら始原的な記憶に結びつくような郷愁と既視感を伴った体験ともいえた。
この不確かな記憶の漂泊が、心身をぞわぞわさせられる感覚となって、このままこの赤い糸の錯綜に絡め取られたくなる心理にも襲われたのだった。
私がこの空間にしばらく佇み、そしてゆっくり歩を進ませた時間が即ち「不確かな旅」のなかを旅したことにほかならないのだろう。
赤い海へうつろ舟を漕ぎ出した私は、ふと17音を奏でていた。
〈魂乗せし舟さまよふや朱夏の海 裕樹〉
堀本裕樹(ほりもと ゆうき)
俳人。「蒼海」主宰。俳人協会幹事。北斗賞、俳人協会新人賞受賞。『NHK 俳句』2019年度選者。句集『熊野曼陀羅』、『俳句の図書室』など著書多数。 『塩田千春展:魂がふるえる』
《内と外》2009/2019年 Courtesy:Kenji Taki Gallery,Nagoya/Tokyoベルリンを拠点に国際的に活動している塩田千春の過去最大規模となる個展。大規模なインスタレーションを中心に、記憶や不安、夢といった現在のテーマに通じる初期のパフォーマンス映像や2003年から手がけている舞台美術の仕事なども紹介。
森美術館〜2019年10月27日まで
休館日:無休
入館料:一般1800円
ハローダイヤル:03(5777)8600
URL:
https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/shiotachiharu/ 表示価格はすべて税込みです。
取材・構成・文/白坂由里 撮影/永野雅子
『家庭画報』2019年9月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。