――確かに私も子どもの頃は、雷が鳴ると“くわばら、くわばら”と唱えておへそを隠すといったことを、教えられるままにやっていました。
「ですよね! そういうことって、通信手段が発達するまで結構残っていたと思います。今はスマホを使って根拠や理屈を調べることもできますけど、確かめようがなかった時代は、実際に見たとか、知っているという人の話を否定しようがないですから。この作品のおばばにしても、本人が“私は海尊様の妻”だと言っている以上、信じるしかない。もちろんそれは、心と心を通わせないと成り立たないことでもあるので、嘘だと決めつけず、そんなこともあるだろうなと思えた時代の心の通わせ方というのも素敵だなと思います。そういうところも含めて、日本人が忘れてしまったものが詰まっている作品だなと」
今年2本目の舞台出演となる『常陸坊海尊』。田中知之さん(FPM)が手がける音楽にも注目だ。――東京五輪が開催された1964年に発表された本作品。戦争や高度成長にのみ込まれ、忘れられてしまった弱者に寄り添う海尊の物語は、今の日本人にも響きそうです。
「そう思います。不思議だなと思うのは、こんなに小さい国なのに、それぞれの地方に文化や風土があって、どれでもそれに接すると、何となく懐かしさを感じること。僕は東京でビルに囲まれて育った完全なシティーボーイなんですけど(笑)、稽古で東北訛りを聞いていると、どこか懐かしさを覚えるし、田舎に行くと初めての場所なのに懐かしいと思う自分がいる。それってどういうことなんだ? 日本人って何なんだ?って、すごく感じます」
――映像作品にも活躍の場を広げている平埜さん。芸能界にはいつ頃から興味を持っていたのでしょう?
「本格的に仕事をし始めたのは高校生からですが、興味を持ち始めたのは小学生くらいからです。親が映像関係の裏方の仕事をしていたので、親が長期のロケに行くときは僕と弟も一緒に現場に行ったりしていたんです。それで自然と興味を持つようになって」
――俳優になってよかったなと思うのは、どんなときですか?
「結構些細なことで思ったりします。あとはやっぱり、こういう作品に出合えたときも。まったく知らなかった世界へと興味の幅を広げてくれて、調べるほどどんどん面白くなって、いろいろなことを考えさせてもらえるので」