大抜擢で鮮烈デビュー。たちまち売れっ子に
バーのマスターの進言で思いがけず開けたモデルの道は、歩き始めて程なく大きなスポットライトを浴びることとなります。
それが、資生堂のCMへの抜擢でした。
「当時CMに出ていらした団 時朗さんの弟分を探していたらしくて、すでに決まっていると聞いたんですが、それでもとりあえず顔見せに出かけたわけです。そしたら、そこにディレクターの杉山登志(とし)さんがいらした。
杉山さんといえば、当時天才と呼ばれていた大巨匠です。ものすごく忙しくてまず会社にはいらっしゃらないかたなんですが、その日はたまたまいらしてカメラテストを受けましてね。10日後くらいだったかな、『お前に決まったぞ』って連絡がありました」
資生堂の男性化粧品ブランド「MG5」の広告での鮮烈なデビュー。
反響はすさまじく、東京に憧れたわけでもなく野心を秘めていたわけでもない小倉出身の17歳の青年が、一躍日本中にその顔と名前を知られることとなりました。
「『セブンティーン』みたいな女の子の雑誌にも出るようになって、もともと1人だったらなんとかやっていたんだけど、女性の肩を抱くみたいな動きがどうにもぎこちなくてね。緊張したり、照れてしまったり。よく怒られましたよ。モデルの才能はないなと思いました。
『MG5』のCMでは、芝居がかった要求もされて、それが芝居に興味をもったきっかけかな。でも芝居が楽しいというより、とにかく写真が苦手だったんです」
かつて資生堂「ブラバス」のCMで鮮やかな印象を残したトレンチ姿。60代の今、大人の余裕でさらりと着こなす。主演が続いた20代、やがて訪れた氷河期
仕事はモデルの枠を超えて、次第に芝居へと移行していきます。今でこそ、モデルから俳優への転向は珍しくないけれど、草刈さんはその先駆けともいえる存在。
20代にはドラマや映画で次々と主役を担うようになり、ルックスを生かしたかっこいいヒーロー像が、ますます人気に拍車をかけました。
大作への出演が続いたのも20代から30代にさしかかる時期でした。
「当時全盛を極めていた角川映画から『復活の日』の主演オファーが来たときは、跳び上がって喜びました。ただロケは過酷だった。南極まで行きましたからね。男ばっかりで10か月ほどもかけた撮影は、行っているときは地獄だったけれど、今思えば得難い経験をさせてもらいました。
その後、『汚れた英雄』で主演をさせていただいた。自分自身やりたい役だったから、うれしかったですね」
脚光を浴びて華々しい活躍を見せる裏で、しかし草刈さんは、自分に貼られた「二枚目俳優」というレッテルにもがき苦しんでいたといいます。
そして、キャリアはご本人がいうところの「氷河期」に入ります。
「『汚れた英雄』が終わった頃からですね、フィルムの仕事が減っていったのは。『もう草刈じゃないな』という雰囲気が周りから伝わってくるんです。そもそもが自業自得。いい仕事をさせてもらって天狗になっていた。やりたいことを強引に通そうとしたりね。
友達と遊びほうけていたから悪い噂も出ていたんでしょう。『あいつ、使いにくい』ということになって、仕事がみるみる来なくなっていきました。来たとしても、もう主役ではない。役がどんどん小さくなっていく......」