玄兎くんの名づけ親は梶川さんだそう。今日は兄の雅樂(うた)さんの七五三用として樹木さんが誂えたきものを着てご挨拶。美術館の最上階、柔らかな光が差し込む「光庭」で。最後まで自分を貫く芸術にも匹敵する生きざま
内田 母が亡くなるちょっと前、最後の最後にこうすればいい、みたいな選択肢はあったんですよ。でも母は「これ以上私がいろんな治療をして生き延びようとしたら、それは欲が深すぎる」っていったんです。家族としては1日でも長く生きてもらいたいから「ちょっと待って、やろうよ」というんだけど、もう自分で死を決めたんですね。
がんにかかってから、ずっと死というものを身近に感じていたわけだけれど、全身のPETの状態を見せられて、まったくぶれずに「腑に落ちた」といったとき、誰ももう何もいうことはできなかった。静かに死を待つ作業だと悟ったとき、もしかしたらいろんなことをすればまだ生きていたかもしれないけれど、それを選ばず死を選んだ。
梶川さんが、何百枚、何千枚という写真家の作品から選び取るということは、ほかのものを全部捨てることだとおっしゃるけれど、それくらい選択することの強さというものを、私は最後に見せてもらいました。
梶川 亡くなる3年ほど前、「村上華岳『太子樹下禅那』の小さな複製画できるのかしら」と求められた。
内田 ものをもらうのが嫌いな母が。
梶川 名刺1枚も受け取らなかった人がね。それでお通夜に行ったとき、枕頭にきちっと掛けてあった。樹木さんのお宅で、あの仏画が置かれる場所はあそこしかないんです。だから、覚悟というのかな、あの絵を求めた時点で、家で亡くなりたいという気持ちがあったんだと思いますね。
北大路魯山人の思想に共鳴し、対話を繰り返した梶川さんと樹木さん。透徹した美の精神に貫かれた作品が並ぶ魯山人作品室。現在、没後60年『北大路魯山人展-和の美を問う-』を開催中(2020年1月19日まで)。「最後に、選択することの強さを見せてもらいました」—— 内田さん
内田 母は1か月間入院して、最後のほうに「そろそろ家に帰る」っていいだしたんです。主治医の先生が「このタイミングを逃したら、もう帰せません」といわれたので、そっと連れて帰ったその夜に亡くなりました。
梶川 なかなか決断できないことだと、僕は思う。也哉ちゃんがえらいなと思ったのは、あの状況で誰かが聞き入れなければいけなかったことだから。
内田 苦渋の選択でした。でも、断れないです。ずっと「家で死にたい」とはいっていたけれど、死の12時間前、最後の最後にやっぱり気配を信じることに身を任せていけばいいんだな、とも教えられました。それこそ魯山人じゃないけれど、周りが反対しようと、自分がこうだと思ったことを貫く。人生というものは芸術ではないけれど、もしかしたら芸術にも匹敵する1つの生きざまだったのではと思います。
梶川 樹木さんの思想哲学ですね。
祈りを込めて
1999年に釈迦ゆかりの地、インドのブッダガヤを訪れた樹木さん。「おみやげ。拾ってきたの」と渡されたのは、彼の地から持ち帰った菩提樹の葉。梶川さんは、その葉に樹木さんの戒名「希鏡啓心」を書き、也哉子さんへの贈り物に。お別れをしに来てくれて「待ってるからね」と
梶川 樹木さんが亡くなられる、あれは45日前に訪ねてくださって。食事に誘い近所の店に向かうとき、樹木さん、手をね、こう。
内田 はい、腕を組んで。
梶川 そのとき娘に、写真を1枚撮ってと頼んだの。樹木さんが「最後だと思っているんでしょう」というから、「そうです」って。そしたら「待ってるからね」って(笑)。「あまり早く迎えに来ないで、僕はまだ少しやらなければならないことがあるから」と返した。それで帰られて1週間後に大腿骨の手術をされて、そのままだったから、最後に会いに来られたような気がします。
内田 らしいですね、最後まで。私は、母の覚悟には到底行けないけれど、ときどきこうしていろんなお話を伺わせていただけますか。
梶川 いつでも。
内田 突然ね、ふらっと(笑)。今日はありがとうございました。
Information
何必館・京都現代美術館
京都市東山区祇園町北側271
- 館名は、定説を「何ぞ、必ずしも」と疑う自由の精神をもち続けたいという願いから「何必館」と名づけられた。村上華岳、山口薫、北大路魯山人を中心に近現代の絵画、工芸、写真などを収集。
撮影/江原英二〈Astro〉 きものスタイリング&着付け/石田節子 ヘア&メイク/豆多景子〈市田ひろみ美容室〉 取材・文/河合映江 協力/ハイアットリージェンシー京都
『家庭画報』2020年1月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。