緒方洪庵のもとで蘭学を学ぶ
適塾(大阪)
オフィス街に突如現れる風情漂う建物はもともと豪商の町屋。築約200年。〔紺野さん着用衣装〕ワンピース2万5000円/トラデュイール ネックレス3万9500円/ルーナ(チェルキ) ピアス3万2000円 リング12万7000円/ともにペルラジオーネ バッグ14万5000円/ファビアナフィリッピ(アオイ) 靴1万5000円/ダイアナ ウェルフィット(ダイアナ 銀座本店)仲間と切磋琢磨し、青春を謳歌した大坂時代
適塾とは、蘭医学研究の第一人者、緒方洪庵(1810~1863年)が1838(天保9)年に開いた蘭学塾。
遠く北海道や九州からも志高き若者が集い、オランダ語を学び、西洋の医学や思想に触れ、その後、日本の近代国家形成や医療の発展に貢献しました。
そのひとりである福澤諭吉は、塾に在籍していた約3年間、寝食の時間も削って学問に没頭。22歳で塾頭になります。
右・中庭から見える物干し場は、諭吉たち塾生がお酒を飲み、夕涼みをした場所。 左・緒方洪庵の銅像。ご子孫の頭部CT画像も参考に制作したもの。当時の諭吉の誇りは、仕官のために勉強している江戸の書生より、勉強のために勉強している自分たちのほうが幸せで優秀だということ。楽しみは、月6回の試験が終わった夜に仲間とお酒を飲んで騒ぐことでした。
そんな諭吉を洪庵はわが子のように扱っていました。諭吉が腸チフスにかかった際、洪庵は名医でありながら、「自分では迷う」と言って、薬の処方を信頼する医者に依頼。
諭吉は「自分の家の子供を療治してやるに迷うと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない(福翁自伝)」と書き残しています。
洪庵の著『虎狼痢治準(ころうりちじゅん)』(複製)。虎狼痢(コレラ)が流行した際、最新の西洋医学をもとに治療法をまとめたもの。わずか5日ほどで書き上げた。大阪大学適塾記念センター准教授の松永和浩さんは、洪庵の妻・八重の存在も大きいと話します。
「塾生の世話をしていた八重は政治の話もできる聡明な女性。諭吉に一目置いていて、諭吉も実母のように慕っていました」。
塾を離れた後も、洪庵亡き後も、諭吉は大坂を訪れるたび、お土産を持って八重を訪ねたといいます。
大阪市福島区の玉江橋北詰に程近い「福澤諭吉誕生地(中津藩蔵屋敷跡)」学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われる――──福翁自伝