言葉は思考の土台
福澤諭吉が広めた日本語
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の格言や、一万円札の肖像として、日本人の誰もがその顔と名前を知る偉人だが、その実像は意外に知られていない。三田演説館の前に立つ福澤諭吉像。(写真/慶應義塾広報室)監修・文/山内慶太(慶應義塾大学教授・福澤研究センター所員)福澤諭吉の業績の一つに、西洋の言葉や考え方を日本語に置き換えたことがあります。日本になかった西洋の概念を分かりやすく伝えようと苦心を重ねたのです。
訳語以外にも西洋語を音で表すために濁音の「ヴ」を考案したり、簿記の表記を漢数字に置き換えたときに生じる不都合を、便利なように改めたり。
必要があれば、工夫して解決していく器用さと創造力が福澤にはありました。
福澤が作った「本邦初の言葉」や、元々あったものでも新たな意味を言葉に与えて一般化していった日常用語を拾い、長年、福澤諭吉研究を続ける慶應義塾大学教授の山内慶太さんに解説していただきます。
【家庭】
福澤は、「一家は習慣の学校なり、父母は習慣の教師なり」と言い、「文明の家庭は親友の集合なり」とも言いました。人としての基礎を作るうえで家庭の役割は大きい、しかしそれは、和気藹々とした家族の団欒の中で、自然に感化するのがよいと考えていたのです。そこで、家庭の団欒に適した話題を収めた『家庭叢談』という雑誌まで出版しています。これがきっかけで、「家庭」という言葉が広く使われるようになったといわれています。
【健康】
福澤の適塾時代の恩師、緒方洪庵は、オランダ語の医学書を訳し『病学通論』を出版しました。その中で、「健康」という訳語をあてました。福澤はしばしば、身体の健康の意義を語り、また、身体の状態を比喩に社会の在り方を語りました。その際に、洪庵が創出した「健康」の語をよく使ったことで、日本中にこの言葉が広まったといわれています。心身の健康を重視した福澤は、晩年も、朝の散歩、米搗(つ)き、居合を日課にしていました。
【自由】
福澤は、『西洋事情二編』(明治3年)の冒頭で、妥当な訳字がなくて困却することが多かったと記しています。そして、「liberty」に「自由」を用いたことを挙げて、元の意味を尽くしきれていないと、詳細に説明を加えました。「決して我儘放蕩(わがままほうとう)の趣意に非らず」と自由と我儘を混同しないように注意を促しています。
福澤はその後も、これからの時代は、互いに互いの自由を尊重し合う社会でなければならないと考え、書の右肩に捺す関防印にも、「自由は不自由の中に在り」の語を使いました。
【独立】
「独立」はドクリュウとも読まれ、ドクリツが一般化したのは明治20年以降といわれています。福澤は、明治初年に出版した『世界国尽』や『童蒙教草』の中でもドクリツとルビを振っています。これらの本は全国の小学校で教科書として使われましたので、ドクリツの定着に貢献したことになります。
それ以上に重要なのは、新たな概念をその言葉にのせて定着させたことです。福澤は、個人の独立、そして独立した個人として互いに尊重する関係を大切にしました。そして、それは何よりも、対等な夫と妻の関係から始まると、生涯をかけて家父長制を批判し、女性の地位の向上に力を尽くしました。
【競争】
文久2(1862)年の欧州巡歴から帰国した福澤は、チェンバーズの経済学の教科書の翻訳を試みます。そして、「コンペティションという原語に出会い、いろいろ考えた末、競争という訳字を作りだしてこれにあてはめ」(『福翁自伝』)ました。
それを幕府で財政等をあずかる役人に示したところ、「争」の文字に「穏やかならぬ文字である。いったいこれはどういうことか」、「これでは御老中がたにお目にかけるわけにはいかぬ」と受け入れられなかったと回想しています。
【演説】・【討論】
福澤は、自分の知見や意見を述べ、互いに交わすことがこれからの社会には大切だと考え、門下生らとその方法を研究しました。明治7年、会議運営の方法の英書を訳して『会議弁』を出版しますが、その際に、「スピーチ」、「ディベート」の訳語として考案したのが、「演説」、「討論」です。
同時に福澤は、その実習の場として三田演説会を始め、翌8年には、三田演説館を建設しました。三田演説会は今日まで続き、この演説館で開催されています。
【汽車】
「スチーム」はそれまで「蒸気」と訳されていましたが、一文字に縮めようと考案したのが「汽」です。それが発端で、「汽車」、「汽船」等も日常使われるようになりました。福澤は、19世紀を「蒸気の時代」と語っています。
蒸気機関によって、鉄道等による運搬・移動も、印刷も、電信も容易になり、「インフォルメーション」の瞬時に行き交うようになった時代の人の意識の変化と社会の変化を考え、『民情一新』にまとめました。
【版権】
福澤は、自身の著作をまとめた『福澤全集』の緒言で「余はそのコピライトの横文字を直訳して版権の新文字を製造したり」と記しています。福澤の著書はいずれもべストセラーとなりますが、同時に多数の偽版が出版されました。当時の日本には著作権はもとより私権の概念もなかったのです。
そこで福澤は明治になる前から偽版の摘発と告発を続け、著作権の確立に努めました。その結果、明治8年の出版条例で「版権」が定められました。
【ヴ】
福澤は万延元(1860)年、咸臨丸で渡米した折、英語と中国語の単語・会話集を購入し、帰国後、発音と中国語の訳語の日本語読みをカタカナで付けて『増訂華英通語』を出版しました。発音の表記は英語の音に近づけようと苦心し、英語Vの発音を表す「ヴ」も、その中での「思い付きの新案」と後に記しています。
少年少女向けの世界地理の本『世界国尽』では、地名等、なじみのない発音と表記を説明するのに、凡例で「書中、はひふへほの仮名文字に円き濁点を附けて、ぱぴぷぺぽと記したるあり。これは、はひふへほにもあらず、又ばびぶべぼにもあらず、のっぺらぽうなどいうぺぽの音なり」と記しました。
【二〇二〇】
江戸時代までの表記であれば今年は二千二十年と記します。「千」等の位取り文字が入ることで読みやすくもなりますが、簿記や筆算には桁が揃わず不便です。そこで福澤は、近代簿記の方法を日本に紹介した『帳合之法』を記す際に、算用数字の「0」に相当する「〇」の文字を考案して、「二〇二〇」と表記するようにしました。
いきなり横書きの表記では、多くの日本人には受け入れられない、まずは縦書きでと考えたとも語っています。