【塾員対談】慶應連合三田会会長 菅沼安嬉子さん×作家 林 望さん
「福澤諭吉の革新性について語ろう」
今年女性初の慶應連合三田会会長に就任した菅沼安嬉子さんと作家のリンボウ先生こと林 望さんは、慶應義塾大学卒の「塾員」同士。福澤諭吉の女性論や家庭教育をテーマに、オンラインで大いに語り合いました。
菅沼安嬉子(すがぬま・あきこ)さん1943年東京生まれ。幼稚舎から大学まで慶應義塾育ち。医学部を卒業後、夫が開業した菅沼三田診療所に勤務する傍ら、慶應義塾女子高校で15年、慶應義塾大学看護医療学部で7年講師を務める。2020年慶應連合三田会会長に就任。全部で881もある多種多様な三田会の集合体
林 慶應連合三田会という組織は他大学の同窓会とはかなり違っていて、学外の人にはわかりづらいでしょうね。
菅沼 そうなんです。同窓会が始まったのは明治13年で、その後、三田会と名づけられ、いろいろな場で個別に開かれていた三田会をまとめたのが連合三田会です。第二次大戦で一時中断しましたが、戦後改めて新組織を結成し、昭和38年に正式に発足しました。塾員38万6000人の巨大な組織です。
林 望(はやし・のぞむ)さん1949年東京生まれ。作家・国文学者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程満期退学。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授を経て、作家活動に専念。2013年『謹訳 源氏物語』(全10巻)で毎日出版文化賞特別賞受賞。林 慶應義塾大学または大学院で学んだ全卒業生を「塾員」と呼ぶ。これも学外の人には通じませんね(笑)。
菅沼 三田会にはさまざまな部会があり、まずは卒業しますと「年度三田会」に入ります。また、都道府県や市区町村ごとに「地域三田会」が323あり、うち75は海外にございます。たとえば、出張や転勤で北京に行くと、北京のことがわからなくても北京三田会に行けば何でも教えてもらえます。他にも企業単位の三田会、司法書士三田会といった職種別の三田会、体育会系やクラブの三田会などもあり、現在881の三田会が存在します。
「慶應連合三田会は人間(じんかん)交際を説いた先生の思想を体現した組織です」── 菅沼さん
菅沼 おもしろいのは、年度、地域、会社といった複数の三田会に所属しても、まったく問題ない点です。そのほうが交際がより広がり、その人の宝になりますから。福澤先生は「世の中に最も大切なるものは人と人との交(まじわ)り付合(つきあい)なり。是(これ)即ち一(ひとつ)の学問なり」と述べておられますが、その教えが今も生きていて、知れば知るほど本当によくできた仕組みです。
林 慶應の場合はただ人づきあいとして仲よくするだけで、徒党を組んだり利害が絡んだりしないのがいいですね。ただ、先日も地方出張であるホテルに泊まったら、そこの主人が「僕、塾員です」と挨拶してくれて、もうそのひと言でこのホテルは信頼できると思ってしまうところがある(笑)。エリート意識とも違う、不思議な感覚です。
菅沼 よくわかります。
林 福澤諭吉は明治の時代には非常に珍しいタイプの思想家で、政府の要人になるといった出世とは無縁でした。誰ともつるまず「名誉ある孤立」を保ったんですね。そうした福澤の遺徳が教え子たちに脈々と伝わっているんじゃないでしょうか。
夫と妻の姓を1字ずつ合わせて新しい姓を作る
林 僕は毎年、主に福澤諭吉の女性論をテーマに講義を行っていて、資料を読み直すたびに大変感銘を受けます。福澤先生が女性論を論じたのは非常に早い時期で、明治3年の『中津留別之書』から最晩年の『女大学評論・新女大学』に至るまで、考え方がまったくぶれず終始一貫しています。
《菅沼安嬉子さん選》
気品の泉源、智徳の模範
── 慶應義塾の目的林 たとえば『中津留別之書』の中では「人倫の大本(たいほん)は夫婦なり。夫婦ありて後に、親子あり、兄弟姉妹あり。天の人を生ずるや、開闢(かいびゃく)の始、一男一女なるべし」と述べています。まだ日本刀を差して歩く人がいたような時代に、人としての道徳の根幹は夫婦にあるとズバッと言い切った。こんな人はほかにいません。
また『日本婦人論』では、男と女は結婚したらそれぞれの親の家から独立して一家を成さなければならず、どちらの名字を名乗るのもよくないと言っていて、その先進性に驚かされます。
菅沼 両方の姓を取って新しい姓を作れというご提案がいいと思いました。
林 そうそう、たとえば菅沼さんと私が結婚すると「菅林」になると(笑)。
菅沼 本当の平等とはそういうことですよね。
林 望さんが監修を務めた『女大学評論・新女大学』(講談社学術文庫)。福澤諭吉が江戸時代の女訓書『女大学』を論破した名著。「忠君愛国」の時代に命がけで男女平等を唱えた稀有な人でした」── 林さん
林 それから、明治19年に発表した『男女交際論』では「情交」の大切さを説きました。福澤が言う情交とは精神的なつきあいで、性的な交わりのことは「肉交」と書いています。男女にとっては肉交も大切なものではあるが、大人の男女を一緒にしておくと、みんなが急に発情して肉交をするわけではないと(笑)。教養のある男女であれば、文学、政治、社会、芸術など、形而上的な話をすることで仲よく交われる。男女が平等につきあえば、人間社会が平和になるのだと主張しました。
菅沼 男脳と女脳は全然違いますから、両方がお互いを補い合うほうが絶対いい。それをあの時代におっしゃったのはすごいことです。
林 そうなんです。当時は日本政府が欧化政策を進める一方で着々と富国強兵策を進め、日清・日露戦争へと突入していった時代で、男は兵隊として鍛え、女は家を守らねば成り立たないから、江戸時代より厳しく男女を峻別しました。そんな忠君愛国の時代に、福澤先生は絶海の孤島のようにたった1人で男女平等を唱えた。いつ右翼の暴漢に襲われてもおかしくなく、本当に命がけだったと思います。
家庭教育の重要性を自ら示した子煩悩な父親
林 福澤先生の文章は快刀乱麻を断つがごとくで、読んでいると心がわくわくしてきますよね。きっと今生きていたら、夫婦別姓なんてけしからんなどと言っている輩に対して、世界中を敵に回しても論破したことでしょう(笑)。
菅沼 私、よく思うんですけど、文章や写真はたくさん残っていますが、どんなお声だったのか、一度でいいから聞いてみたかったなあ、と。
林 ほんとですね。おそらく朗々とした声で話されたと思います。
「子どもに甘い点に人間味を感じます」── 菅沼さん
林 福澤諭吉が男女平等についてあれだけ強い発言ができたのは、言行一致だったからともいえます。というのも、福澤先生は非常にまじめな人で、生涯お妾さんを囲うとか、遊郭に行って遊ぶといったこととも一切無縁でした。
菅沼 あの時代にそういう人は珍しかったでしょうから、奥さまは本当に幸せだったと思います。お子さんが9人もいらして、4男5女で。私から見ると、子どもにはずいぶん甘いお父さんだなと思いますが(笑)、そこがまた人間味があっていいですね。
林 勝海舟の息子と結婚したクララ・ホイットニーが書いた『クララの明治日記』に、福澤家を訪問した記録が出てきます。それを読むと、一家揃って客人をもてなしていますが、お父さんがいばるわけでもお母さんが服従するわけでもなく、本当に家族が和気藹々としていて、福澤の言う「文明の家庭は親友の集合なり」そのものです。
菅沼 私のような医者から見ても、やはり家庭教育は人間の元になるものだと思うので、にぎやかで温かな福澤先生の家庭は理想的です。
林 ただ興味深いことに、福澤諭吉自身はひとり親家庭で育っています。1歳のときに父親が亡くなり、母親が女手一つで5人の子を育てた。母は父がいかに立派な人だったかを、子どもたちに縷々(るる)話して聞かせています。そういうことが幼児体験として刷り込まれているから、自分が父親になった際には、幻の父の分まで家庭の幸福を引き寄せようとした部分があると思います。
三田会の1つである「東京三田倶楽部」は帝国ホテル内にサロンを構える。