福澤先生が生きていたら何を語り、どう行動するか
林 菅沼さんは慶應女子高で保健の講師をなさっていますが、僕も20代の頃、6年間、国語の講師を務めた経験があり、女子高の生徒たちの「独立自尊」の志をひしひしと感じました(笑)。
菅沼 そうでしたか。先生が生徒に馬鹿にされたらもうおしまいですよね。
林 だから、こっちも必死ですが、授業後は「半学半教」の精神で、たちまち友達同士のように仲よくなる。
菅沼 私立で受験がないから何を教えてもいいのも楽しいですね。私は教科書は使わず、自分が結婚・出産・子育てを通じ、知っていてよかったと思う医学知識をすべて生徒に教えました。
互いの教員時代の思い出話で大いに盛り上がった。「自由主義的な思想が今も脈々と流れている」── 林さん
林 私も教科書は一度も使わず、自分で作ったプリントを教材に、1学期中ずうっと『平家物語』ばっかりやるような授業でした(笑)。試験もプリントの持ち込み可で、何を書き込んでもかまわないので、生徒たちは細かい字で表裏にびっしり書いてくるんです。
菅沼 それはいい勉強になりますね。
林 慶應だからできたことで、その背後には福澤諭吉の独立自尊の思想があると思います。自分の判断でやるということは責任を持たなくちゃいけないということですから。福澤が実際に教えていた頃の慶應義塾も、そういう学校だったんじゃないでしょうか。福澤諭吉が学んだ適塾も同様に、自由自在ででたらめな学塾でした。規則などなくても自律的に学ぶことが本当の学問だという自由主義的思想が、ずっと血脈として流れているんだと思います。
画面越しに林さんとの対話を楽しむ菅沼さん。《林 望さん選》
人倫の大本(たいほん)は夫婦なり
── 中津留別之書菅沼 私が福澤先生の言葉で好きなのは「気品の泉源、智徳の模範」です。気品と智徳を身につけ、社会の先導者になることが慶應義塾の真の目的で、幼稚舎にもこの言葉を大書した額が掛かっています。在学中は全然わからず、今になってやっとその意味がわかってきました。一生の目標だなと思います。
福澤先生は危機の時代に民衆を導く存在で、戦後の世論調査では尊敬する人の第1位が福澤諭吉だったそうです。人々がコロナ禍や地球温暖化による豪雨災害で苦しむ今、福澤先生がいてくださったらどんなにいいか、先生ならどうされるだろうと私はいつも考えます。先日も881の三田会にお見舞いやメッセージを書いたメールを配信しましたが、温暖化にしても40万人近い塾員全員が先導者として真剣に考えてくだされば、何か食い止める動きが出てくるのではと期待しています。
右・福澤諭吉『男女交際論』の海賊版。 左・男女同権などけしからんという明治の世相を反映した内容の『頑固理屈:女権の反対』。林 晩年の座談筆記『福澤先生浮世談』に、まさにコロナ禍に向けた助言のような一節があります。「伝染病流行のときに摂生法はシチ六(むず)かしい事であろうが、近処の人が不養生ばかりする、迚(とて)も医者の言うことは行われない、序(ついで)ながら自分も一処になって不養生を犯すと云うか。仮初(かりそめ)にも医者の説を聞て、毒物の毒物たる道理が胸に落ちて、返す言葉もなくその道理を尤もだと合点したらば、その者一人でも宜(よ)し、即刻より謹(つつしん)で養生をするこそ人間の本分だ」と。この後、一夫一婦制の大切さを颯爽たる舌鋒で論じる部分に至ると、僕はいつも感涙してしまいますが(笑)、要するに、伝染病は一人ひとりが自らを慎むよりほかに手がないと言っているんです。
医者が言うことなど話半分に聞いて自分だけは大丈夫、と人混みなどに行くからクラスターが起きるわけで、福澤先生がもし今蘇ったら、みな付和雷同せず、各自が独立自尊の精神で自分自身を大事にし、きちんと身を修めなさいと言ったじゃないか、それ見たことかとおっしゃると思いますね。
〔特集〕今、この時代を切り開く生き方と言葉「福澤諭吉のすすめ」(全7回)
撮影/七戸隆弘(林さん) 取材・文/大山直美 取材協力/慶應義塾福澤研究センター、慶應義塾広報室
*参考文献/『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』(以上岩波文庫)、『福澤諭吉 家庭教育のすすめ』『福翁百話』(以上慶應義塾大学出版会)、『女大学評論・新女大学』(講談社学術文庫)、『現代語訳 学問のすすめ』『現代語訳 福翁自伝』『現代語訳 文明論之概略』『おとな「学問のすすめ」』(以上筑摩書房)、『福沢諭吉 学問のすゝめ』(NHK 出版)、『子どものための偉人伝 福沢諭吉』(PHP 研究所)、『慶應義塾150周年記念 未来をひらく 福澤諭吉展』(慶應義塾)
『家庭画報』2020年10月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。